The Project Gutenberg EBook of Doko e, by Hakucho Masamune
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Title: Doko e
Author: Hakucho Masamune
Release Date: June 21, 2010 [EBook #32941]
Language: Japanese
Character set encoding: UTF-8
*** START OF THIS PROJECT GUTENBERG EBOOK DOKO E ***
Produced by Sachiko Hill and Kaoru Tanaka
何處へ
正宗白鳥著
目次
何處へ |
(四十一年一月―四月 早稻田文學) |
……………………… |
一 |
玉突屋 |
(同 年一月 太 陽) |
……………………… |
一三五 |
六號記事 |
(同 年一月 文章世界) |
……………………… |
一四三 |
彼の一日 |
(同 年三月 趣 味) |
……………………… |
一五九 |
五月幟 |
(同 年三月 中央公論) |
……………………… |
一七三 |
村 塾 |
(同 年四月 中央公論) |
……………………… |
二〇五 |
空想家 |
(四十年十 月 太 陽) |
……………………… |
二二一 |
株 虹 |
(同 年十二月 新思潮) |
……………………… |
二六九 |
凄い眼 |
(四十一年八月 太 陽) |
……………………… |
二九一 |
世間並 |
(同 年七月 趣 味) |
……………………… |
三一一 |
[Pg 1]
何處へ
(一)
可愛い目元をほんのり酒に染めた女が高くさし掛けた傘の下に入つて、菅沼健次は敷石傳ひに門口へ來た。
「ぢや明後日、屹度ですよ」と、女中は笑顏で覗き込み、艶氣を含んだ低い聲で云つた。
「むゝん」と健次は女の顏をも見ず、引たくるやうに傘を取つて、さつさと急ぎ足で步き出したが、五六間も步んで我知らず振返ると、「鳥」と行書で書いた濕つた軒燈の下に彼の女がぼんやり立つてゐる。
健次は何の譯もなく微笑する。女も微笑して、胸を突出して會釋する。
[Pg 2]それも一瞬間で、健次は傘を肩にかけ、側目も振らず上野の廣小路へ出て、道を山下の方へ取る。
昨日の天長節に降り通した雨は、今日も一日絕間なく、濕つぽい夜風が冷たく顏に吹き當る。往來の人々は皆傘を斜めに膝を曲げて、ちよこ〳〵と小股に急いでゐる。健次も膝から下はびしよ濡れになつたが、敢てそれを氣に留めるでもなく、只いゝ氣持で、口の内で小唄か何か呟いて、沈んだ空へ酒臭い息を吐きながら、根岸の近くまで來ると、橫合から底の深い大きな蝙蝠傘が、不意に健次の蛇の目にぶつ付かる。チエツと舌打して避けやうとする機會に、蝙蝠傘の男が聲をかけて、
「やあ君」と立留つた。
健次は少し驚いて、「やあ君か、何處へ行つた」
「君の家さ、今夜は雨だから、屹度ゐるだらうと思つたのに、何處を浮れてた、いい顏つきをしてるぢやないか」
[Pg 3]「そりや氣の毒だつたね、これから僕の家へ行かうぢやないか」
「いや、もう遲いからよさう」と、蝙蝠傘の男は長い身體を屈めて、下駄屋の時計をのぞいて見て、「もう彼此九時だね」と一寸考え、「實は君に少しお賴みがあるんだが……此處で話してもいゝが、どうだ其邊の珈琲店へでも寄つて吳れんか」と、首をまはして周圍を捜す。
「ぢや、さうしよう、この先きにいゝ家がある」と、健次は先きに立つて、半丁ばかり泥濘の中を通つて、擦玻璃に一品亭とある小さい西洋料理店へ行つた。
客は一人もゐない。白布で蔽うたテーブルの上に火鉢を置いて、籐椅子が四五脚周圍に不秩序に置かれてある。健次は火鉢の火を搔き廻して、
「君は馬鹿に寒さうぢやないか、さあ當り給へ」
と云つて、卷煙草に火を付けて、反身で椅子に寄りかゝり、頻りに瞬をしながら仰向いて煙草を吸ふ。
[Pg 4]今迄板の間に腰掛け、左右の袖を搔き合はせて居眠りをしてゐた小娘が、高い足駄を引摺つて、
「お誂へは」と寢呆聲で聞く。
「寒いから日本酒がいゝだらう、料理は何がいゝ、ビフテキにでもするか」と、骨太い手を火鉢の上に翳しぽかんとしてゐる相手の顏を見て、默諾を得て、健次は小娘に命じた。
この丈高き男は織田常吉と云ひ、健次が昔の同窓の友で、今は私立學校に英語の敎師を勤め、傍ら飜譯などをしてゐる。年齡は健次より僅か一つ上だが、健次の小柄で若く見えるのに反して、格段に老けて見える。丈の高きのみならず、それに釣合ふ程に肉付きもよく、見た所魁偉なる人物であるが、何處となく身體にゆるみがある。鹽氣が足らぬ。顏は平たく目は細く、耳は福々と垂れてゐる。
「君は相變らず氣樂さうだね、殊に今日は愉快な顏をしてるぢやないか」と、織田[Pg 5]は健次を見て、ゆつたりした聲で云ふ。
「はゝゝゝ、そう見えるかな、これで二三日打續けだよ、まあ社の方が暇つぶしで、遊ぶ方が本職のやうな者だ、しかし本職となると、遊ぶ方法に苦心する。如何にして遊ぶべきかが、僕の當面の問題である」と、陽氣な聲で、一寸桂田博士の假聲を使ひ、顏に愛嬌を湛えて微笑々々する。
「まあ遊べる間は遊ぶがいゝやね、しかし今もね、君の母堂と話して來たんだが、健次も此頃は酒好きになつて困ると云つてたよ、祖父さんのやうにならなきやいゝがと云つてゐられた」
「さうか、僕の母方の祖父は、大酒呑みで終には狂人になつて死んだんだからね、それに僕の顏が次第に祖父に似て來るさうだから、母は心配してるだらう」
「何、さうでもないらしい、只早く嫁を貰ひたいやうな話をしてゐた、僕にもいゝのを見つけて吳れつて、本氣で云つてられたよ、親は有難いものだね」
[Pg 6]「さうかね」と、健次は嘲けるやうに云つて、「君も精々美人を捜がして呉れ賜へな」
「そんな氣があるんなら周旋しよう、しかし何だよ」と云ひかけた所へ、小娘が銚子を持つて來ると、織田はぽかんとして、前の話の緖を忘れてしまひ、健次の矢繼早にさす盃を三四杯引受けた。
「で、君、僕に用事と言つて何だい」と、健次は强い調子で押付けるやうに云ふと、織田は「何、急な事でもないんだがね」と、前に自分が賴みがあると云つた癖に、その用談を避けるやうにして、ビフテキの小さい切れをもぐ〳〵させながら、顏を顰め、「非常に堅い」と呟き、暫く無言の後「僕も弱つたぜ、親爺の病氣がます〳〵よくないんで、入院させなくちやならんのだ、まだ確定はしないが、どうも胃癌らしい」
と、フオークとナイフとを持つたまゝ、仰向いて云つたが、顏にも言葉にも弱つてる樣子は見えず、例の通りポカンとしてゐる。
[Pg 7]「さうかい、そりや困つたね」と、健次は少しも手を付けぬ皿を見詰めたなりで、氣のない聲で云ひ、心でも左程同情してる風はない。織田は相手に頓着なく、悠長な聲で、
「妻は身が重いし、母はあの通りの無性者で、一日煙草ばかり吸つてゝ役にや立たず、妹は學校へ行つたきりで、遲くまで歸つて來んから、何もかも僕一人でやらなくちやならんのでね、本當に困るよ、それでこの四五日は學校も缺勤ばかりしてる」
「ぢや妹を學校へやつて、君は缺勤して家の世話をしてるんだね、しかし病人の看護なんか君の適任ぢやないね」
「だつて仕方がないさ、どうも一家の主人となると面倒なものだ、今に君も結婚すると困るぜ、何だのかだのと、そりや五月蠅くつてね、それに子供なんか出來なきやいゝんだが」
「そいつあ當然だから仕方がないさ、しかし僕だつたら、家が五月蠅けりや一日[Pg 8]外へ出てゐらあ、女房の產の世話から借金の言譯まで亭主がしなくつたつていゝ」
「さうもいかんよ、君、それに僕の月給が安いから、平生だつて内職をしなくちや引足らんのに、病人が出來ちや災難だ、だから此頃は酒どころぢやない、煙草も止めてしまつた」と、少し萎れた。その樣子を見ると、健次は急に不憫になり、
「だが君は感心だよ、家庭のために犧牲になるから」と云つて、後を見て「もう一本」と叫んだ。
「僕はもういゝよ、遲くなると家で心配するから、そろ〳〵歸らなくちや」
「まあいゝさ、久振りだから、も少し話をしやうぢやないか」と、健次は少しも手を付けぬ皿を押のけ、煙草を啣へたまゝ腕組して、半ば目を閉ぢ、降りしきる雨の音やら、幽かに響く車の掛聲やら、前を通つてる按摩の震え聲に耳を傾け、森とした淋しい空氣に心が吸込まれ、快活な色も顏から失せかゝつて來たが、コトンと銚子の音がするので、振返つてパツと目を開けた。惡夢から醒めたやうに、銳く四圍[Pg 9]を見まはし、やがて眉をぴりゝとさせ、二本の指で熱さうに銚子の首を持つて、
「さあ受け玉へ」と、無雜作に相手の盃へどぶ〳〵と注ぎ、「そして肝心の用事は何だい」と問ふと、織田は言憎さうに暫く口籠り、
「少し無理なお願ひだがね」と、盃を持つては置き〳〵して、「又原稿の事さ」と、氣の毒さうに云ふ。
「うん原稿の周旋か、僕が引受けてどうかしやう」と、健次は快く首づく。織田はやうやく安心したらしく、甘そうに盃を呑み干して健次に差し、
「實際忙しい間に書いたので、よくはなからうがね、それでも毆り書きぢやないんだ、會話にや格別苦心して、一機軸を出したつもりだから、まあ讀んで吳れ賜へ、物はゴルキーの小說だ」
「さうか、いゝだらう」と、健次は輕く答へて、物が何であれ、譯筆が何であれ、そんな事は身を入れて聞かうともせぬ。
[Pg 10]「それからね、少し無理だが原稿料を早く貰つて吳れまいか、月初めから一文無しだから、それに……」
と、健次の煙草を一本取つて、指先きで揉みながら、何をか訴へんとする。それと見て健次は頭から打消し、
「よし〳〵、それも僕が受合つた、引替へに貰つてやらう」
と話を轉じ、「で、君は此頃箕浦に會つたか」と何時も長々と聞かされる無味の生活談や金錢論は避けやうとする。
「むん昨日見舞ひに來て吳れたがね、會ふと例の通り大きな人生問題を論じてる。讀書も盛にやつてるやうだし、此頃は長い論文も書いてるさうだ、いづれ君の所へでも持込むだらう、しかしね、僕が云ふんだが、箕浦なんかは己惚が過ぎる、人生がどうの宇宙がかうのと、人間が誤託を並べるのは、身の程知らずの極だ、獨身で親爺の脛でも嚙つてる間は、そんな事を道樂にしてゐられやうがね、家庭でも造つ[Pg 11]て、一人前の人間になると、そんな事は馬鹿々々しくて問題にもならんさ」
と、多少の活氣を帶びて論ずる。健次は微紅の艶々した頰に靨を見せ、切れの長い目尻に皺を寄せ、
「はゝゝゝ、珍らしく君の名論を聞くね、しかし箕浦はコツ〳〵根氣よく學問を續けてるし、文章も上手になつたぢやないか、感心だよ」
「今に肺病か惱病になるのが落ちだ」と、織田は澄してゐる。
「いや博士ぐらゐにやなれらあ」と、健次は皮肉に云つて、「だが箕浦は君の妹に惚れてるよ」と、少し乗出して、聲を低くする。
「馬鹿なことを」と、織田は締りのない大口を開けて、ハツ〳〵と笑ふ。
「うんにや惚れてる、君の目にやどうだか、僕には一目瞭然よ」
「さうか知らん」
「さうだとも、それにね君の妹のラブしてる男がある」
[Pg 12]「え、本當かい君、虛言だらう、君はよく色んなことを云つて、僕を調戯ふからいかんよ、若し本當なら相手が誰れだか聞かせて吳れ玉へ、僕も一家の主人だから、妹の身の上についても責任があるんだもの、間違ひのないやうに警戒しなくちやならん」
「いくら警戒したつて駄目さ、歲頃の女が色氣づくのは當然ぢやないか、で、若し相手が分つたらどうする、妹を柱にでも縛りつけるかい」
「君、そんな馬鹿な眞似をする者か、僕は何さ、向うが相當の男だつたら正式の結婚さすし、不相當の男だつたら思ひ切らせる」
「成程譯の分つた兄樣だ、何處の親だつてそれと同樣の事を申します」
「だつて主人の義務としてそれが當然ぢやないか、君ならどうする」
「僕なら放任しとかあ」
「馬鹿な、君も箕浦流の空論家だね」
[Pg 13]「ふゝん、僕と箕浦とは一荷にならんぜ、向ふ樣は本をどつさり抱いてるから貫目があらあね」
「君は氣樂な事ばかり云つてるが、僕は何時も確信してる、人間は要するに僕のやうにならにや虛言だ、遲かれ疾かれ君なども同じ道へ落ちて來るんだ」
健次はぞつと寒氣がして、思はず手を火鉢に翳し、織田の顏を見詰め、「お互ひに君の道連れになつて、テク〳〵步きで、電信柱でも數へて行くんだね、大通りの左側を步いてりや、自然に日本橋に出られる」
「君、戯言は止して、今の話しの相手は誰れだい、一體向うの男は妹を思つてるんかい」
「さあ、どうだかね、よく知らんよ」
「誰だらう」と、頰杖ついて、眞面目に考へてゐる。
健次は人差指でテーブルを打ちながら、「先あ左程にも思やせぬ」と小聲で唄つてゐ[Pg 14]たが、急に何をか感じて、額に皺を寄せ、邪慳に煙草の吸口を嚙み出した。
織田は思ひ飽んで面を上げ、「君は不斷に煙草を吸つてる、毒だよ」
「毒だつていゝさ」と、健次は吸殻を吐き出し、「僕は阿片を吸つて見たくてならん、あれを吸ふと、身體がとろけちやつて、金鵄勳章も壽命も入らなくなるさうだ、阿片だ〳〵あれに限る」
と、獨りで合點してゐる。それが戯語とも思へず、眞から感じてるやうなので、織田は細い目を丸くして、
「よくそんな下らぬ事を眞面目で考へてるね、阿片でなくつたつて快味を感ずる者は幾らもあるぢやないか」
「さうかね、僕はこれ程煙草を吸すつてゝも、眞に味いと思つたことは一度もないよ、酒だつてさうだ、ビフテキだつてさうだ、一寸舌の先で甘いと思つても、染々と五體がとろける程快味を感じたことがない。どうも物足らんね、それで何時も思ふん[Pg 15]だ、何處か世界の隅つこに最上の珍味が潜んでるに違ひない、僕はそいつを捜し出したい、で、今もそれを考へてたんだが、或はその珍味が阿片ぢやないか知らん、阿片を吸ひ出すと、何にも代へられんちうぢやないか」
「馬鹿な」と、織田は一口に斥けて、「まだ甘い料理を食はんから、そんな事が云つてられるんだ、櫻木の鳥なんか食べてて、甘い物がないなんて廣言する權利はないよ」と、天麩羅鰻椀盛などの名代の家を數へ上げ、諄々とその說明をし、「近々長編を譯して仕舞つたら、藏田屋でも奢るよ」
健次は苦笑して、「何れ御馳走にならうよ」と立上り、「もう十時だ、行かうか」と、勘定を濟ませて外へ出た。雨は稍々小降りになつたが、道は暗く風は冷たく、健次は來る時の元氣に引變へ、傘を兩手で持つて、ぶる〳〵と慄へたが、織田は前と同じく泰然自若、急かず騷がず、長靴を踏占め〳〵電車道へ向ふ。
[Pg 16]
(二)
健次の家は御行の松を右手に見て、暗闇には危險な道を一丁ばかり入つた曲り角にある。土藏付で、狭いながらも庭もあり周圍を高い板塀で取かこみ、可成りの物持の住宅と見られるが、その實屋根も壞れ柱も傾き、大雨には臺所で傘をさゝねばならぬ有樣。本當なら隅から隅まで大修繕を施さねばならぬので、近所の差配なども見兼ねて、賴まれもせぬに家屋敷を檢分して、「早く手をお入れなさらなくちや御損ですぜ、何なら私がお引受けして、見積りを立てゝ見ませう」と注意するが、健次の父は「近々どうかしよう」と云つて、別に心に掛ける風はない。健次は早くから「こんな陰氣な古びた家はうり拂つて、山の手へでも引越した方がよからう」と勸め、母は全然同意して、せめて此家を修繕して他人に貸し、自分逹は小ぢんまりした借家に住まつた方が幾らいゝか知れぬ。第一こんな廣い家にゐては、世間から有福[Pg 17]に見られて、何かと取上られる金高も多くて不輕濟ではあるしと說くが、穩やかな父もこればかりは頑として聞入れぬ。おれは此家で息を引取るつもりで越して來たのだから、决して他へは移轉せぬ。それに借家は厭だと云ふ。彼れには借家住ひは不見識だという氣があるのだ。
菅沼家は微祿ではあつたが、旗本の家柄。健次の父は十四五の頃、維新の渦中に浮沈して、多少の辛苦を甞めた。その後も生活には惱んで、遂に四國九州の郵便局にも二三年づゝ勤め、今は多少榮逹して會計檢査院に奉職してゐるが、五十五歲の老朽で、地位も安固ではなく、長官のお慈悲の下に脈をつないでゐる。俸給も左程多くはない。それに健次の下に女の子が二人、支出は容易ではないが、彼れはあまりくよ〳〵苦に病む風はなく、每晚の晚酌二合に陶然として太平樂を並べる、健次は一人前の男になつたし、娘は二人とも容色はよし、おれはまだ〳〵お墓へ入る心配はなし、これからがおれの世の中だ、健次に嫁を貰つてやり、姉娘でも片付けたら、[Pg 18]おれは第一に役所を止めて隱居をする。恩給も下るし心掛りはないから、うんと好きな事をして遊べるんだが、おれは物見遊山はせん、差詰馬術の稽古がしたいな。全體子供の時から馬が好きで、馬術の逹人になるつもりだつたが、世が變つて算盤ばかり持つて來た。しかしこれからやる。自分の慾といつては外に何もないが、一つ馬だけは買つて見たいと、この老人は馬の話になると夢中になつて來る。
先祖に馬術の名人があつたとかで、その秘傳の卷物が桐の箱に入つて、土藏に保存されてゐる。これと一領の甲冑と一口の無銘の刀劍とが一家の寶物、老人の自慢の種だ。冑は疎らに星のついてる古色蒼然たる者で、鎌倉時代の作、刀は國弘の作だらうと云ふ。そして老人は每年元日には此等の寶物を床の間に飾り、家族を集めて禮拜し、三方ケ原合戰以來の祖先の武勇を談じ、この冑や刀に籠つてる精神を忘れてはならぬと說き聞かせ、獨りで喜んでゐる。
健次は少年時代に此等の武具に興味を感じて、父の留守中竊かに土藏へ忍び込み、[Pg 19]漆の剝げた鎧櫃を開けて、昔の戰爭を連想し、或は兩腕に力瘤を出して冑を持まはつて悅しがつてゐた。殊に刀が大好きで、恐々拔きはなち、齒を喰締り瞳を据ゑて、その冴えた光を見詰めては感に打たれることが多い。刀は武士の魂だとは父からも屢屢敎へられ、自分でもこの家傳の寶刀を見る每に、義の爲には死を厭はぬ、如何なる苦痛をも忍ぶ、辱しめらるれば死すなどの感じが、その明晃々たる切尖から彼れの膓に染み込むやうであつた。性質は父とは餘程違つて疳が强く、母の故鄉、彼れの生地たる丸龜の尋常小學に學んだ頃も、試驗の成績が他に劣ると口惜しくて夜も眠れぬといふ程であつたが、東京の學校へ通ふことゝなつては、殊にこの考がひどい。その爲に學課の復習を勵むのみならず、身體の訓練をもつとめた。痩つぽちと嘲られるのも無念である、年嵩の學生に腕づくで意地められるのもつらし、腕力を養ひ筋肉も發逹させねばならぬと、寒中シヤツ一枚で木刀を揮つたこともある。力試しだといつて二人の妹を笊に入れて擔ひ、引くりかへつて傷をつけたこともあ[Pg 20]る、母からは惡戯が過ぎると叱られたが、彼れには惡戯でも慰みでもないのだ。幼い心にも自分の脆弱な體質が情なく、行く先々が案じられてゐたので、外目には滑稽とも見える體格修養も、自分には最も眞面目な行爲であつたのだ。しかし生來の體質は變りやうがない。それで度々母に向つて、
「何故僕をこんな小ぽけな身體に生みつけたんです」
と詰り、淚をこぼしたことさへあつた。その癖友逹の間へ出ると、「痩せてゝもおれは强いぞ」と力んで、喧嘩をしかけられて逃げることはない。或日も餓鬼大將に嬲られた時、ナイフで切りつけて、相手を驚かしたこともある。
歲を取るに從つて、戶外遊戯は止めて、勉强部屋に閉籠り、課業外の雜書をも渉獵るやうになり、最早體質の苦勞はしなくなつた。で、中學から高等學校と順序を踏んで進んだが、一家の財政からいふと、それだけでも容易ではなく、とても大學を卒業する望はなかつた。しかるに健次が他の學生と對當の交際もして、別に見すぼ[Pg 21]らしくもなく、文科の英文學を終へることの出來たのは、一に桂田文學博士の助力に依るのだ。桂田家と菅沼家とは昔から緣故の深い上、博士が健次の學才を認めたためである。
大學三年の生活、健次の頭腦は非常に變化を來した。元法科へ入りたい氣もあつたのを、桂田との關係から文科と定つたので、入學後も心は迷ふ。自分の素質から云ても學者で安んじてゐられさうぢやない。多量の書物を讀んで一生を終る、下らないぢやないか、それよりも政治家にでも實業家にでもなつて、自分の考が具體的に目の前に現はれるを見、生きた人間生きた事件の動搖起伏に接する方が面白くはないかと思ふこともあつたが、さりとて斷じて一を去つて他に就
く氣にもなれぬ。それに課業として學ぶ哲學の問題、外國の詩歌小說、新刊の雜誌雜著、皆過敏な神經を刺激して、妄想は留め度がない。制服制帽を着け、博士夫人恩賜の紅梅を散らした水色の風呂敷包を抱き、兩手をポツケツトに入れ、大學の裏門から上野を拔けて、[Pg 22]根岸の古屋へ歸る間、彼れは妄想の道を辿つてゐたのだ。單調の道には飽いてしまつた。しかし彼れは一度も泣言を云つたことはない。人生の寂寞とかを文章
にして雜誌へ寄稿したこともない。同窓の瞑想家からは淺薄と云はれる程あつて、飛花落葉に對して、深沈な感に耽り、自然の默示に打たれるでもなく、友人にでも遇へば、急に沈んだ心も浮立つて快活に談笑し警句百出諧謔縱橫。クラスの集會に缺席すると、「菅沼はどうした」と、衆口一致して遺憾の聲を發する程であつた。テニスもやる、玉突もやる、彼れはクラスの快男子として通つてゐた。そして二年目の試驗前、制服を囚衣の如く感じ、引脫いで自由の身とならんとしたが、博士夫妻の强硬な反對に會ひ、その時は恩人に背く程の勇氣もなく、ぐづ〳〵で卒業まで我慢したものゝ、成績は圖拔けてよくはなく、博士夫妻の期待に背いた。彼れの弱い身體は長年月の學校生活に倦み疲れ、最早席順の高下を爭ふの根氣もなく、虛榮心も失せ、他の連中が卒業試驗の準備に夜を徹してる間に、獨り球戯場にゲームを爭ひ、或は[Pg 23]牛屋の二階で女中に圍繞されてゐた。櫻木に出入し始めたのも此頃からである。卒業後は博士の推薦で、中學敎師となつたが、これは三月ばかりで辭職、今日まで一年あまり雜誌記者を勤めてゐる。
(三)
大抵の家は戶を鎖し、暗闇の森閑とした道を、健次は雜念に煩はされ、俯首いてコツ〳〵辿つてゐる。彼れは七歲で先祖以來のこの都へ歸つてより二十七歲の今まで殆んど一日もこの道を踏まぬことなく、目を瞶つてゝも、路次の隅々まで間違へる氣遣ひはない。
そしてこの界隈の見る物聞く物に飽き〳〵してゐる。父は交番の角まで來ると肩の荷が下りるやうな氣がすると云ふが、健次は此處まで歸ると、足が澁つて後へ引かへしたくなる。彼れは今織田に分れ、その長靴の重い音の次第に消ゆるを聞きなが[Pg 24]ら、「阿片を呑みたい」を繰返した。他人が味さうに吸ふのを見て羨ましく、煙草を吸ひ習つたが、自分には左程の甘味もない。阿片々々、自分が内々求めてた者はあれだ、阿片さへ吸へばこの世からなる極樂淨土へ行けるのだ。アルコールランプに點火し、長椅子に身を埋め、長い煙管で匂ひを呼び、沈睡に陷る支那人は、祖先の詩人が夢想した無何有の境に遊んでゐるのだ。阿片を嗅ぎに支那へ行く。迦南の樂土は其處にありと思はれる。
敎師の職は蓄音器か鸚鵡の役廻りだと感じて、否應なしに辭職し、もつと活氣のあり動きのある役をと志し、現在の職を求めたが、これも此頃は厭で〳〵溜らぬ。どうせ長くは續きはしない。いつそ向うから不勉强の爲め免職と來ると、新たなる地が開けさうだが、當分そんな運も向ひて來さうでない。だから明日は桂田を訪ねて「現代の思潮」とか何とかの問題で、的の字づくめの談話を筆記して來なくちやならん。
[Pg 25]雨はしよぼ〳〵と飽きもせずに降つてゐる。電燈の輝いてる或別邸の犬は今夜も飽きもせずに生命限り吠え立てゝゐる。
健次は睡い目をして元氣のない欠伸をした。
先々月の初め、殘暑のまだ酷しい時分、西日の當る桂田の書齋で、長々しい文學論、獨逸語やラテン語交りの味のない只六ケ敷議論を筆記させられ、浴衣の着流しでありながら、汗に漬つて弱つたことがあつたが、その時下座敷から柔かいピアノの音が洩れ聞え、博士の頑固な言葉を追ひのけては、健次の耳に忍び込み、膓まで盪かさうとした。そして彼れの筆記はしどろもどろに亂れ、聞違へ書誤りの夥しかつたのを、そのまゝ雜誌に掲げて博士の怒りに觸れたが、あの時ほど博士が怖い顏して激しい言葉を吐いたことはない。で、後々までも健次の耳には、その音樂が染みついて、踏飽いた道を步んでる時など、耳の底でぴん〳〵鳴り響いて、心に異樣な感じが起る。
[Pg 26]ピアノの主の博士夫人も美くしい、櫻木のお雪も美くしい、織田の妹も醜くゝはない。紅葉や綠雨の小說の主人公の如く、女が生命の凡てなら、憧憬れたり煩悶たり若い盛りの今時分、さぞ戀に忙しいことであらうが、
「しかし自分は箕浦ぢやない」と、自分の胸に答へた。その聲は他を嘲けつた自尊心から出たのであらうが、絕望の調も交つてゐる。で、彼れは煙草を啣へ袂からマツチ箱を取出したが、マツチは一本もないので、舌打して箱を投げつけ、傘を持直してさつさと步き出した。目の前には自分の家の軒燈が、今にも消えさうに微かに光つてゐる。
彼れは雨にふやけた潜戶を兩手で開け、成べく音のせぬやうに敷石を傳ひ、玄關の隅へ傘を投げ出すと、母は雨戶を開けて釣ランプを差出し、
「おや衣服がびしよ濡れぢやないか、この冷えるのにそんなに濡れちやつては身體に毒ですよ」
[Pg 27]と、氣遣はしさうに健次を見詰めてゐる。
「今日は早く歸る筈でしたが、又友人に誘はれて遲くなりました、明日は屹度早く歸ります」
と、言はれぬ前に言譯しながら、足袋を脫いで、爪先で臺所へ步いて行き、足を濯いだ後、そつと柄杓から口うつしに冷水を呑んだ。臺所には盥を据ゑ、柱を傳つた雨の雫がぽたり〳〵落ちてゐる。
健次は長火鉢の前へ戾つて、着物を脫いで母の手から搔卷を取り、酒氣の名殘で温かい肌にふはりと纏ひ、菊を染め出した八ツ橋の略帶を柔く締めて胡座を搔き、「皆なもう寢たんですか」と、隣室の父の高鼾を聞いてゐる。
「あ、もう二時間も前から寢てらあね、それにお父さんは風邪氣だといつてね、お夕飯が濟むと直ぐにお休みさ」と母は戶締りをして火鉢の側に戾り、「お前、織田さんがお出だよ、何か用事がおありのやうで、大分待つてゐなすつたがね」
[Pg 28]「いや、織田にや途中で會ひました、親爺が病氣だとか云つてた」
「さうだつてねえ、餘程お惡いんだつてねえ」と眉を顰め、「織田さんも大抵ぢやあるまいよ、稼人はあの方一人で、それで病人なんか出來てはね、……でも感心な人さ、一生懸命に働いてゐなさる」
「何、あの男は他人が思ふ程苦にしちやゐないさ、呑氣な人間ですもの」
「さうでもあるまいよ、厄介者が多いんだから、浮の空ぢやゐられないさ、お前だつて今の間はどんなにしてゝもよからうがね、もうそろ〳〵先々の事も考へなければね、お父さんも口ばかりは元氣がよくても、何時までもお役所通ひも出來まいし織田さんのやうにお前が家の心棒になつてお吳れでなくちや」と、何につけてもお定りの御敎訓が始まりかけたので、
「ですがね、お母さん、織田の大木なら心棒にでも大黑柱にでもなるでせうが、私のやうな痩せつぽちぢやお役に立ちませんよ」と、健次は如何にも無邪氣さうに笑[Pg 29]つた。母も釣込まれて靑い顏に笑ひを浮べ、
「馬鹿お云ひでない」と云つたが、話は甘く外れて、「そう云へばねお前、家の冑は大變いゝ物で世間に類が少いんだとさ、今日古物陳列會とかへ出すとね、誰だか目の利く方が見て、大變褒めてゐなすつたつて、だからお父さんも、あれ程世間へ出すのを厭がつてた癖に、今日は歸るとその話ばかりして、大喜びで被入やるんだよ、賣つたらば大變なお金になるんだらうね、あんな薄汚い冑だけど」
「さうでせう、今は物好きな人間が多いから、……買手があつたら早く賣つたらいいでせう」
「でもね、お父さんは饑え死しても、先祖の寶だから人手にや渡さないつて、獨りで力んでるんだから」
「まあお父さんはあれが生命よりも大事なんだからいゝさ」と、欠伸をして、「今にお父さんの望みが屆いて、馬でも買つたら、あの甲や鎧を着て刀を差して、この汚[Pg 30]い家から手綱を執つて妖怪退治にでも出て行くでせう、さうなるとお父さん萬歲だが、何年先きのことかなあ」
老母は險のある目で健次を見て、「お父さんやお前は何故さう呑氣なんだらう、私一人にやきもきさせといてさ」と、長煙管をポンと邪慳に叩くので、健次は片膝立てて逃仕度をし、
「呑氣な者ですか、お父さんは馬を買ひたくつて、腰辨當で齷齪してるんだし、私だつて、胸に苦勞の絕えたことはありやしない」と、眞面目か戯言か分らぬ云ひやうをしたが、急に生眞面目になり、「一昨日の晚にね、お母さん、私は廣小路でお父さんに會つたんですよ、向うでは氣が付かなかつたやうだが、私が後から見てると、あの蝙蝠傘を突いて、馬丁と何だか話をしてる。話の筋は分らなかつたが、柳の木に軍人の誰れかの馬が繋いであつて、お父さんがその馬から目を離さずに見惚れてるんです。凡そ十分間もして、お父さんは名殘惜しさうに振り返り〳〵して歸つて[Pg 31]行つたが、私はそれをぢつと見てゝね、その時ばかりはお父さんに早く馬を買つて上げたいと思ひました」と云つて、立上つた。
母は呆れた風で見上げて、「直ぐお寢みかい」
「いや少し勉强してから寢ませう、明日は八時に起して下さい」
と、書齋に入ると、母は追馳けて來て、マツチを擦つて手づからランプを點火し、「お前、二圓ばかり持つてゐないかい、千代の月謝だの何だので、私の手元に大變不自由してるから」
と、低い聲で歎願する。健次は無言で、蟇口からぐちや〳〵の札を手渡して机に向つた。
書齋は土藏側の八疊の室、家中で最も醜くない部屋だが、それでも疊は茶色をして所々擦りむけ、壁には斑點が出來てゐる。小形の本箱が二つ並んで、健次が中學時代からの敎課書や愛讀書が、ぎつしり詰込まれ、プルタークの英雄傳樗牛全集透谷[Pg 32]全集などの背皮の金字が微かに見える、しかし此等の書物は微曇りの玻璃戶から引出されたことなく、机の上には新しい經濟書が置かれてゐる。
健次は二三の郵便物を手に取つたが、一つは箕浦からで、二三日中に會談したい、云ひたい事が山ほどあると書き、尙それだけでは飽氣ないと見え、今月の諸雜誌を讀み、何れも輕浮なる文字の多きを悲しむ、我々は滔々たる弊風に感染せず、徒らに虛名を求めずして眞面目なる硏究を續けたしと書き添えてある。又一つは織田の妹からの手紙で、「秋の日」だの「望の夜」だのゝ五六首の歌を認めて、雜誌へ出して吳れと切望してゐる。健次は二つの手紙を抽斗へ入れ、書物を擴げて二三枚讀んでゐたが、やがて投げ出して濃い眉をぴりゝとさせた。「箕浦の所謂眞面目なる硏究は五年前に過ぎ去つたのだ」と、兩手で頭を抱いて目を瞑つた。すると歸宅の途中と同じい雜念が湧き上つて留め度がない。天井には鼠が暴れまはつて、時々チユツ〳〵と鳴聲がする。一家四人はすや〳〵と眠つてゐるが、每夜その寢息を聞くぐら[Pg 33]ゐ彼れに取つて厭な氣のすることはない。人中へ出てる時には心が動搖して紛れてゐるが、獨り默然と靜かな部屋に坐つてゐると、心が自分の一身の上に凝り固まつて、その日常の行爲の下らないこと、將來の賴むに足らぬこと、假面を脫いだ自己がまざ〳〵と浮び、終には自分の肉體までも醜く淺間しく思はれて溜らなくなる。その時こんな下らない人間を手賴りにしてゐる家族の寢息が忍びやかに聞えると、急に憐れに心細く、果ては萎れてしまう。
健次は昨夜と同じ考を經驗し、心細くなつて萎れて、遂にぶつ倒れて、睡る氣ではなくても自然に眠つてしまう。
雨滴は同じ音を繰返し、鼠も倦みもせずに騷いでゐる。
(四)
翌朝目の醒めた頃は、目伏しい日光がカツと照り渡り、半身を蒲團の上に持上げる[Pg 34]と頭がぐら〳〵する。健次は手を伸して緣側の障子を開けた。莖の細い花の小さい黃白の野菊の間に突立つた物干竿には、シヤツや足袋がぶら下つて、水氣が盛んに舞ひ上つてゐる、父も妹も出掛けたと見え、家内はひつそりして只母の洗濯の音が聞える。
健次は勇ましく跳ね起きて、直樣身仕度をし、獨りで食事をしてゐると、母は濡れ手を拭ひ〳〵茶の間へ入り、
「今日は直ぐに社へお出でかい」
「いえ、一寸桂田の家へ寄つて行きます」
「え、先生のお宅へ、ぢや先生にも奥樣にもよろしく云つてお吳れよ、ほんとに暫らく御無沙汰して申譯がないんだが、變にお思ひなさらぬやうにね、お前も先生や奥樣の御機嫌を損ねんやうに氣をおつけよ、これまでだつてお世話にばかりなつたのだし、これからもどうせあの方にお手賴り申さにやならんのだしね、だからお前[Pg 35]麁相の事を云つちやならないよ」
と、柔しく幼兒にでも說聞かすやうに云ふ。
健次は「えゝ」と氣のない返事をして茶漬を搔き込み、「ね、お母さん、私は當分社の近くへ下宿したいと思ひます、家からぢや社へ遠くつて、此頃のやうに忙くちや、少し不便でもあるし、それに年内に著作をしたいんです」と、平生よりも落付いて穩かに云ふ。
「えツ、下宿するつて」と、母は襷のまゝ、長火鉢に寄りかゝつたなり、健次の顏を見て驚いてゐる。「だつてお前。下宿すりや物がかゝる計りぢやないか」
「何、下宿料なんか廉いものでさあ、それに私に少し考へがあるから、さう云ふことに定めさせて下さい」
「まあお父さんに聞いて御覽な、私にやお前の云ふことが分らないよ、學校へ通つてる時とは異つて、もう一家の主人となる身分でさ、家を出て下宿するて一體どう[Pg 36]したんでせう」と、向きになつて責める。
「その代り暮にや少し金を造つて、妹に春衣位買つてやります」と、健次は宥めるやうに云つたが、母は胕に落ちぬらしく、額に靑筋を立てゝ少し慳貪に、
「春衣どころぢやないよ、暮にはお前を當にしてるんだから、一人で浮々遊んでられちや困らあね、それに下宿なんかして、無駄なお錢を使ふつていふ方があるもんぢやない、まあお父さんを御覽なさい、今朝も加減が惡いのに早くから出て被入しやつたのに、お前は每日々々お酒を呑んぢや遲く歸るしさ、三十近くもなつて、何故かう考へがないんだらう」と、鐵瓶をこすり〳〵、目に皺を寄せてゐる。
「私だつて考へてるさ」と、健次は小聲で云つて、母を相手に理窟を云ふ氣もなかつたが、自分に似てると云はれる母の顏の、年齡よりも老けて、淋しく沈んだ間に、神經の銳く動くを見て、何となく氣の毒になり、
「ですがねお母さん、私は家へ歸ると氣が滅入つて仕方がないんです、一時間もぢ[Pg 37]つとして書物を見ちやゐられんのです、何だかかう穴の中へでも入つてるやうで、氣が落付かなくなるし、黴臭い臭ひがして息がつまります、お父さんは住み馴れてるから、此家が一番いゝと云ふんだけど、私にや一日居りや一日壽命が縮まる氣がする。去年まではさうでもなかつたが、此頃は殊にひどいんです、だから下宿でもしたら、少しは氣分が直るかと思つて、昨夜獨りで定めたんです」と、健次は今も鬱陶しい毒氣が壁の隅から噴き出て、自分を壓迫する如く感じた。
「それがお前の我儘だよ」と、一口にはね付けて、「家が汚くつて厭なら厭で、お前が自分で修繕でもする氣にならなくちや」
「だつてこんな家を手入れしたつて駄目さ、しかしお父さんが好きなんだから仕方がない、私だけ何處かへ逃げ出すんさ」
と、健次は母に何を云つても無駄だ、自分で無言實行すればよいと思つて口を噤み、母が何か云ひかけるのを冷かに見て、新聞をポツケツトに捻込み、中折を被つて急[Pg 38]いで戶外へ出た。ステツキを小脇に挿み、新聞を出して、「模範的學生」や「醜業婦」の記事、經濟論から運動界の消息まで、何物をか捜し求むる如く、殘る隈なく目を通し、漸く讀み終つた時分、彼れは千駄木の桂田家の玄關に立つてゐた。
(五)
博士はフロツクコートを着て椅子に腰掛け、新着の外國雜誌を讀んでゐたが健次を見ると、
「さあ掛け玉へ、今日は筆記に來たのかね、約束をして置いたんだが、急に用事が出來てね、これから文部省へ行かにやならんから、又明日か明後日に來て吳れ玉へ、しかしまだ少し間があるから、まあ腰をお掛け、今もこの雜誌を讀んでゝね、西洋の學者の硏究心に感服してたんだ」と鈍い目を向けた。
「さうでせうね、どうしても西洋の學者は違つてるでせう」と、健次は相槌を打つ[Pg 39]て、來る度に嵩張つてる書棚を顧みた。
「どうです、此頃は何を硏究してるかね」と、博士はお定まりの問を發する。
「何もやつちやゐません」
「そりやいかん、社の方も怠けるといふぢやないか、それについて君に忠吿しやうと思つてたんだが、實は先日編輯長が來てね、君が此頃は怠けて困るといふ話だ、一體私は靑年が新聞や雜誌に關係することは初めから好まないから、君にも懇々注意したので、矢張眞面目に敎育事業に從事するやうに望んだんだが、君が是非やりたいつて、矢も楯も溜らん有樣だから紹介はしたけれど、竊かに氣づかつてた、雜誌記者なんか私立學校出の者位が適任で、君などは不適任なんだからね、しかし編輯長の話によると、初めの間は大變熱心に働いて隨分役に立つといふから、多少安心もした譯だが、さう早く厭になつちや困るね」
「そりや初の間は珍らしくつて譯もなく面白いから、氣乗りがして働けるんです、[Pg 40]知らん人と懇意になつたり、有名な博士なんかに會ふのを悅しがつたんですけど、今ぢやもう好奇心がなくなりました、戀女房だつて一年も添つてりや鼻につきますからね」
「君は年々眞面目でなくなる、學校時代とは人間が違つてしまつた」と、博士は締りのない顏を顰め、小さい耳朶を搔きながら、「君に比べると箕浦は感心だ、以前は遲鈍な男だと思つてたが、此頃は忠實に勉强してる、度々私の所へ質問を持つて來るが、中々硏究心に富んでる」
「さうでせう、箕浦君には僕も感心してます。あの人は書物を積み重ねりや天國へ屆くと思つて、迷はないで書物の塔を築いてるんですからね、しかし私には紙の踏臺は險呑でなりません」と、健次は唇のあたりに微笑を湛へ、パツチリした澄んだ目には、博士の胸の底の紙魚の跡まで映つてゐる。
博士はます〳〵苦い顏をして、「どうも君は眞面目でない、今から讀書を卑しむやう[Pg 41]ぢや、人間は發逹の見込がないと斷言出來る、これから國家に盡くさうといふ靑年が、こんな浮薄な根性を持つてゝどうします、碌に讀書もせんで書物を輕んじたり、人間の義務を滿足に盡しもしないで、世の中を攻擊したり、大間違ひの話ぢやないか、しかしこれも今の雜誌や文學が作つた惡結果の一つだらう。どうも輕佻だ、浮薄だ。過渡期には免かれんことだが、武士道の精神も衰へるし、新倫理觀が靑年の間に缺乏してゐるから、こんな歎かはしい現象が起る。して見ると私なども進んで積極的に救濟策を講ぜねばなるまい、元來通俗的の片々たる議論を世間に發表することは好ましからんので、成べくは精力を自分の事業に集中して、自分の新哲學を組織したいのであるが、今の靑年の通弊を見ると、どうも社會の爲國家の爲に默々に附してゐられん、私も當面の問題について飽まで意見を發表しなければなるまい」と、演說調で云つた、それが如何にも眞面目で心底から憂世の情が溢れてゐるので、健次は氣の毒になり、
[Pg 42]「ぢや私の雜誌へも、そのお考へを書いて頂けますまいか、私共は人生の經驗にも乏しいんですから、先生方の御意見を伺ふと非常に爲になります」と、穩かに殊勝らしく云ふと、博士は顏を軟げて頻りに首肯き、
「つまり何さ、君などはまだ〳〵讀書が足らんし世間で苦勞をしないから、空論に迷はされるんさ」と時計を見て、「ぢや二三日中に筆記に來て下さい、少し纏つた考を述べやう、それには私が十年程前に書いた「東西倫理思潮」を參考にするから、君も一應目を通して貰ひたい、多少今とは考が違はんでもないが、大體はあれでいい」
と、ひよつくり立つて書架を捜し出した。博士は漸く四十を過ぎたばかり、敎授の中でも幅の利く方ではなけれど、有名な讀書家で、語學は英獨佛に熟逹してゐる。一生學問しに生れて來た人といふべく、遊戯と云へば五目並べすら知らぬ。眼の艶氣がなく力もなく、ドンヨリしてゐるのは、多年の讀書に疲勞した結果かとも思は[Pg 43]れる程で、卒業後も地位を爭はず榮華を望まず、親讓りの可成の財產あれば生活の上に憂ひはなく、只書籍の中に身を埋め、結婚も三十五六の時、親戚の强固なる勸吿で漸く决行した位。日常自分の學問で凡ての社會を指導し得らると確信し、靑年にも親切である温和な良紳士だ。
健次は今書架の前に立つた、胴の長く足の短かい博士の後姿を見て、その十年一日の如く迷ふことなく書物に耽溺する一生を羨ましく又不思議に思つてゐると、博士は厚さ一寸程の假綴の四六版を引出して、指先で表紙の埃を彈きながら机の上に置き、
「この中の要點は一々原書から直接に引照したのだから、自分でも確かだと信じてる、兎に角一應讀んで下さい、君も必ず益する所があるに違ひない」と、所々開けては二三行小聲で讀み、頻りに首肯てゐる。
かくて博士は十年前の己れを回顧し、健次は博士の舊著を無理强いに讀まされる苦[Pg 44]痛を豫想して、暫らく無言でゐる。錆びた日光はカーテンの間から洩れて、靑い机の上に細く一線を劃してゐる。昨日に變つてポカ〳〵と温かく、健次は締め切つた居間に息の詰るやうに感じた。
「貴下、まだお出掛けになりませんの」と、妻君が不意に戶を開けて、半身を現はしたので、博士は漸く氣がつき、「ぢや二三日内に」と、健次に云棄てゝ、手袋を握つたまゝ階下へ下りた。
(六)
健次は妻君に添うて博士を玄關に見送り、その車の後から自分も歸らうとしたが、强いて引留められて元の書齋へ舞戾り、母の傳言を慇懃に述べた。
妻君は眉を顰め袖を動かして、「まあ、ひどい煙だこと」と、カーテンを手繰つて窓を開けた。烟は渦を卷いて風のない空へ流れて出る、
[Pg 45]「で、奧さん何か御用ですか」と、健次は浮腰になつて問ふた。
「別に用事といふ程でもないんだけど、一寸お話したいと思つて、貴下お急ぎなの」と、上目葢を上げて健次を見た。
「えゝ、もう社へ行かなければ」と、力なく云つて、見るともなく妻君の油氣もない頭の髮から、爪先の汚れた足袋まで見下した。洗ひさらしの地味な銘仙か何かを着て、只菊模樣の襦袢の襟に艶があるばかり、健次は蓆で包んだ美人像を連想した。
「では、何時かの西洋小說の續きは聞かして預けんのですね、私あの女の行衞が聞きたくてならないんだけど」
「いや、もうあんな馬鹿々々しい話をする氣にやなりません、女は虎烈剌か何かで死んぢまつたとしとけば、それで直ぐ結果が付いてしまうんです」
「それぢや酷いわ、あんなに苦勞しちやつて、これからと云ふ所で死んぢまつては、……あの續きは屹度面白いに違ひない」
[Pg 46]「そりや小說家が有りつ丈の拵え事を書き並べて長くするから、矢鱈に面倒になるんですが、世の中の事はさう誂へ向きに出來てやしないでせう、假りに女と男と日比谷公園で出會はうと約束してゝも、その晚女が電車に轢かれて死ぬるか、男がペストに罹るか分つたもんぢやない」
と、投げつけるやうに云つてハツ〳〵と笑ふ。妻君は頭を簪で搔きながら淋しく笑ふ。
「貴下は何故そんなに暢氣なんだらう。私はね、堪らない程哀れな小說か芝居が見たくつてならないんですが、西洋にはそんな小說はないんでせうかねえ」
「そりや幾らもあるでせう、先生は日本の小說はお嫌ひだが、西洋の者はお讀みのやうだから、聞かせてお貰ひなすつたらいゝでせう」
「だけど先生に話して頂くと、ちつとも面白くないんですわ、悲しいことでも凄いことでも、御當人がちつともお感じなさらんのだもの」
[Pg 47]「そんな事を感じてた日にや大學者にやなれんでせう」
健次は椅子を離れて窓側へ寄りかゝり、冴え〳〵した空氣に觸れ、窓前の靑桐の葉の黃ばんで中にはもうぼろ〳〵に朽ちかゝつてるのを見て、暫らく默つてゐたが、
「奧さん、もう葉が枯れて來ましたね、この前伺つた時にや、まだ靑々してたのに」と何をか感じた風で向き直つて、「秋になつたせいか、この書齋も寂として靜かですね、此處で先生は何にも不滿を抱かないで、一心に不朽の事業をして居られるんだ、葉が枯れても落ちても、そんな事にやお構ひなしで、本ばかり見て被入しやる。僕等も矢張先生の後を追つて、當にならん不朽の事業でも企てるのが本當なんですね」
「そりや私にや分らないけど、男と生れたら誰れだつて世間に尊敬される身分にならなきや虛言なんでせう、貴下は一度も將來の事をお話しなさらんから分らないけど、全體どうなさるの、今日はそれを聞きたいのよ」
[Pg 48]「聞いてどうなさるんです」
「少し私に考へがあつて」と、目に媚を呈した。
「將來のことつて何も纏つた考へはありません、只今日社へ行つて織田の拙い原稿を賣付けやうと思つてるばかりで、跡は何が何やら眞暗闇です」
「織田さんといへば、あの方もお困りのやうねえ、二三日前にも、もつとお金の取れる仕事はないかつて賴みに入らしつたが、全くお困りのやうね、だから先生も大變同情なすつて、是非相當な職を見つけてやりたいと云つて被入やる。同じ樣に學校を卒業なすつても、貴下と織田さんとは丸で反對ぢやありませんか、顏つきを見てもお話しを聞てゝも分りますわ、織田さんは何故あゝ元氣がないんでせう、全くいた〳〵しいわ」
「しかしね、奧さん、織田は貴女方が思つて居らつしやる程くよ〳〵してやしませんよ、あの男は自身の書いたものは一度だつて拙いと思つたことはないんです……[Pg 49]で、私の將來を聞いてどうなさるんです」
「私此頃氣がくさ〳〵しちやて、色んな事が考へられるのよ、……何しろこんな小人數の家に用事もなくつてぢつとしてるんだから、氣が滅入つちまう筈でさあね、でね、色んなことを考へてね、つまり貴下を立派にして見たくなつたの、私にや子供はなし、また此からも出來つこはないでせう、だから私は歲を取つて、何も樂みがないやうな氣がしてならんから、貴下を自分の子と思つて、世の中へ立派な人間として働かせて見たくなつたの」
「立派な人間てどうするんです」
「そりや一口にや云へないけど、洋行して大學者になるとか、大發明をするとか、そりや貴下の腕次第で、男は何でも出來るぢやありませんか、お金のことなら、私がどうにでもするから、家のことは心配しないで、目的を立てゝ一心に勉强する氣にお成りなさいな」
[Pg 50]「ですが此迄お世話になつたのに、此上御厄介になつちや濟みませんもの、それに先生だつて御承知なさらないでせう」
「いゝえ、先生には私から甘く云へば大丈夫、只貴下が先生の前で眞面目な口さへ利いてゐれば、それで澤山なのよ」と、妻君は右の手を机に置き、左の手で袖口を抓んで、側の椅子に腰を掛けてる健次の顏を覘くやうにして云ふ。健次は妻君がその品のある顏に巧みに彫り込んである長い睫毛、黑い瞳、靑くぼかした白目に艶を含んで自分を見るを見馴れてゐる。
「貴女は何故そんなことを思ひついたんです」
「だつて私は女だから、自分で世間へ出て働きも何も出來やしないでせう。せめて男の子が一人あれば、私の手で理想的に育て上げれば面白いでせうけれどね」
「ぢや貴女は子供が欲しいんですか」
「えゝ、そりや欲しいわ、初めの間は子供なんか、さぞ五月蠅からうと思つてたけ[Pg 51]ど、今ぢや欲しくつてなりませんわ、音樂を習つたり、いろんな事をして來たけれど、矢張り駄目ね、此頃は何つてことはない、厭やあになるんですよ、子供でもなくちや、一生はどんなに淋しいでせう」
「貴女も淋しいんですか」と、不思議さうに見て、「僅かな壽命だけれど、人間は何かで誤魔化されなくちや日が送れないんですね、酒で誤魔化したり戀で誤魔化したり書物で誤魔化したり、子供に奇麗な着物を着せて飛んだり跳ねたりさせて慰みにしなけりや、人間は每日泣面をしてゐなくちやならん、私の母だつて私を玩具にしてるんです、貴女だつて玩具が要るんでせう」
「だつて貴下、自分の子を充分に敎育して、思ふやうに立派な人間に仕立てれば、どんなに樂みでせう」
「しかし貴女にや子供は出來んから、私を子供代りにしやうと云ふのですか、急に老人になつたんですね」
[Pg 52]「私も老込んだでせう」と、神經がピリヽと動いた。もう藻搔いても匐ひ上ることの出來ぬ谷に落ちた氣がした。
健次が家族の如く屢々出入し初めたのは四五年の昔だが、その頃は寶石入の指環を光らせ、博士の妻君仲間では珍らしくはしやいで、來る人々を攫へては、音樂の話や小說の話に夢中になり、健次などが小說の話から戀の話に移り、こそ〳〵と無遠慮に女の品定めなどをすると、「いやね菅沼さん」と云つて眉を顰めながらも、心では悅しがつて、顏一杯に艶々しい色が漂ふ。健次は何時もこの快活な美人が敎授の妻君たるがために、花々しく交際社會へ出る機會のないのを遺憾としてゐた。で、妻君は暇な身體だから年中飾裝をして、狹い社交の範圍内では羽振りを利かせて、園遊會などに招待されると、主人を催がして出掛けぬことはなく、新婚當時は夏冬の休暇に必ず温泉か海濱へ旅行したが、そんな時には自分で服裝を凝らすのみならず、博士の髮の苅り振りから手袋の色合まで八釜しく干渉する。汽車も一等でなくて[Pg 53]は承知しなかつたものだが、この一二年以來はその態度が急に變つて、頭髮も丸髷に結つたかと思ふと、手づくねの束ね髮で平氣でゐたり、古代模樣の品のいゝ丸帶を締てたかと思ふと、唐縮緬の艶のない腹合帶に代へたり、家にゐてもこつてり白粉をつけてるかと思ふと、戶外へ出る時でも素面で氣にもしないことがある。
そして妻君には寵兒が一人缺くべからざる者になつてゐて、健次の目にはそれが誰れであるかよく分つてゐる。博士の殊に親しくしてゐる四五人の學生は、常にその家へ出入し、妻君の發起で晩餐に招かれることもあるが、その中で殊に妻君の寵を辱ふする者が一人ある。それが箕浦であることもあれば、健次自身であることもある。で、その寵兒となると、芝居のお伴も仰せ付かる、矢鱈に物を吳れたがる。一寸訪問しても、側を離さないで、頻りに話をしかける。
健次は差し込む日光を遮けて椅子を後へうつし、兩手で頭をかゝへ、少し身を反らせて欠伸をして、
[Pg 54]「奧さん、それ程靑年がお好きなら、箕浦でも保護して洋行でもさせておやんなすつたらいゝでせう、あの男には先生も望を囑して居らつしやるんだから、丁度適任ぢやありませんか」
「ぢや貴下は何もする氣はないの、何故さう意氣地がなくなつたのです、この春お母さんがお出なすつた時も、此頃は醉つぱらつて歸つて仕方がないつて心配して居らつしやつたが、どうしてそんなにおなりなすつたの、今日も大層元氣がないぢやありませんか」
「急に眠くつて仕方がないんです」と、又欠伸をして、「それに今朝から、母と先生とそれから貴女とに小言ばかり云はれて、意氣銷沈した所です、結婚しろ、眞面目になれ、勉强せいと此頃お題目のやうに私の四方に聞えるんでうんざりしてゐます、だから私は下宿屋へ逃げつちまうつもりです、もう此家へも滅多にお伺ひしません」
と、健次は立上つて、風呂敷包を持つたまゝ室内を行戾りした。
[Pg 55]「家へ來ないつて、何か外にいゝ事が出來たのですか」
「さうでもないけれど、もう此迄の友人や長く交際つてる人にはあき〳〵しました、これから新奇に事を始めなくちや自分の身が腐つてしまひます」
「だから私が云つてる通、新奇に何か目醒しい仕事をお始めなさいな、男なら何でも出來るぢやありませんか、御自分の名を世間に歌はせようと、人の上に立つて自分の威光を見せようと、男にや世間が廣いぢやありませんか」
「それで貴女は私が苦しんで仕事をして、世間に知られるのを御自分の慰みにしやうといふんですか」
「そりや樂みでさあね、これまで家の者のやうにしてるんだし、私は貴下が好きでならないんですもの」と口元に力を入れて幼兒を綾すやうに云つた。
健次は長椅子に身を埋め、微笑して「僕はね奧さん、誰れにも好かれたくも同情されたくもないんです、貴女がいくら同情して下すつたつて、私と貴女とは霞を隔て[Pg 56]てお話するんです、現在の親だつて自分の子を解し得ないで、勝手に自分の頭で拵へ上げて喜んだり悲しんだりしてる、つまり人間は自分一人だ、自分と他人との間には越えることの出來ん深い溝渠が橫つてるんです、箕浦だつて織田だつて、要するに私からは赤の他人で、互ひに本性を包んで交際つてるんです」
「貴下、今日は、どうかなすつたの、いやに理窟ばかり云つて。……ですけど人の本性が分らなけりや分らないで、それでいゝぢやありませんか、好かれたら好かれたで、それ以上穿鑿するにや及ばないわ」
と、今日は常の如く無駄話しに笑ひ興ずることもなく、二人で默つて相手を見てゐたが、書生が戶を開けて、「箕浦さんがお出でになつた」と知らせたので、健次は急に妻君に挨拶して、歸りかけた。
「貴下、下宿屋へ何時お移りなさるの」と妻君は階子段で尋ねた。
「まだ分りません」
[Pg 57]「私遊びに行きますよ」
(七)
社の階子段は社員の多年の足の力で凹んで、砂埃がその中に溜つてゐる。健次はそれを一つ〳〵踏み上る每に、夕暮の果てのない旅路を辿るごとく感ずるのだが、たまたま編輯の相談會だとか、自分の月給の前借の談判だとか、多少でも波瀾があると、少しは活氣がついて二階へ駈け上る。今日は織田の原稿を賣付ける役目を帶びてゐるので、編輯長の年中變らぬ顏を見るにも張合ひがあつたが、さて說き付けて見ると、彼れは頑として聞かぬ。さう幾月も續いて同じ人の飜譯は出せぬといふ。大威張りで受合つたものを拒絕されては顏が立たぬと思つたが、强請する譯にも行かず、少し萎れて社を出た。
彼れは何時ものやうにガツカリして電車に乗つたが、織田の方も棄て置けぬので廻[Pg 58]り道をして麹町のその家を訪ねた。家族に會つては面倒だから、勝手口から便所の側を通つて座敷の緣側へ出ると、織田は既に夕闇の迫つてるのにランプも點火ず、障子を開けて机に向ひ何やら書いてゐた。
「おい君、原稿は駄目だぜ」と突如に云ふと、織田は頭を持上げて「やあ」と云つたきり、ぢろ〳〵健次の顏を見て、「駄目かい、何故だ、困るねえ」と、むく〳〵と身を起して、緣側へ出た。
「まあ心配し玉ふな、おれがどうかする、まだ十や二十の金にや不自由しないよ」
「當てにしてたのに困るねえ」
「今に僕がどうかしてやらう、これから何處かへ出掛けないか」
「僕は出られりやしない、留守番がないから」
「病人はどうだ」と、健次は今思ひ出したやうに小聲で聞く。
「別に變りはない、まあ上り玉へ、今君のシスターが見舞ひに來て吳れて、僕の妹[Pg 59]と何處かへ出て行つた」
「さうか、彼女も此頃は浮れ步いてやがる」
織田はランプを點火て、薄い座布團を出した、健次は靴を穿いたまゝ緣側から寢そべつて、室内を見まはした。狹くはあり裝飾もないが、彼れの家ほど見つともなくはない。床の隅には新聞や原稿紙の側に、ナポレオンの小さい石膏が置いてある。これは織田が學校時代に五圓で買つたものだ。
「君の家も陰氣だね」
「うゝん」と氣のない返事をして、織田は書いてしまつた原稿の枚數を數へてゐたが、襖一重の隣室にはコホン〳〵喘をして、それから呟く聲がする。
健次は厭な顏をして起直つて、小さい聲で、「僕はもう歸らう、妻君にも會はないから、よろしく云つて吳れ玉へ」と石段に立つと、
「まあ待つて吳れ玉へ、君に話がある」
[Pg 60]「だつて、此處で話なんかしちや惡いんぢやないか」
「何、構やしないが、君が遠慮するなら、一寸其の邊を散步しながら話さう」
と、織田は帽子も被らずに小さい庭下駄を引掛けて外へ出て、直ぐ近くの九段坂の方へ向つた。
「桂田さんがね」と、織田は兩手を壞内に入れて、健次を下目に見て、「君何だよ、あの人が僕に同情して、遠からず僕にいゝ職を周旋してやると云つてたよ」
「さうかい、ぢや僕も君の原稿に苦勞しなくともよくなるね、で、僕に話といつて何だい、金なら明日までに必ず拵えてやる」
「それも是非賴んどくが、實は妹の事で話したいと思つて」
「何だ妹のことだつて、シスターを誰れかに遣るんか」
「まあそんな者だ、でね、一言で云ふと、あれを君が貰らつて吳れんか」
と、織田は事もなげに云つて、無論健次も左程反對もすまいと思つてゐる。
[Pg 61]「僕にかい」と、健次は冷笑した。
「昨夜君の注意で少し氣がゝりになつたから、歸つて妻に聞くと、妻が、そりや屹度菅沼さんだらう、あの方なら丁度相當だから、早く定めてしまうがいゝつて云ふんだ、僕も同意だから一つ君承知して吳れないか」
「そりや妻君の見當違ひだぜ、多分何だらう、シスターが邪魔臭いから、早く追片付けたいんだらう」
「いや、そればかりぢやない、僕も早く定めて妹の身に間違ひのないやうにしたいんだ、世間に惡い噂でも立つと困るからね、あれについちや、僕も責任を感じてるんだからね」
「ぢや僕をシスターの防腐劑とするんだな」と、面白さうに笑つたが、織田は飽まで眞面目で、
「打明けて云へば、さうして貰うと僕も大に助かるんだ、今ぢや實際弱つてる、彼[Pg 62]奴にや金がかゝつてねえ」と、平生の癖で粘り强く一つ事を繰返し出すので、健次は弱つたが、頭から反對も出來ず、
「僕よりか箕浦にやり玉へな、君はあの男を嫌つてるが、情合もあるし人間がゼントルだからいゝぢやないか」
「いや箕浦にや困るよ、あゝいつた詩人肌の男は僕は蟲が好かん、花の散るのを蝶蝶だと思つたり、木の葉が落ちるのを見て、萬物凋落の秋が來たといつて淚を流す奴には信用して妹を托するに足らんと思ふ」
「そりや尤もだ、君は箕浦を評する時には妙に名言を吐く、平生は平凡な淚臭い事ばかり云つてるのに、しかし君の妹は箕浦には釣合つた緣ぢやないか」
「いかんよあの男は…………それに箕浦ぢや妹は制馭して行けやしない」
「君にも手綱は取れんだらう」と、健次は眠りの足らぬ目をこすつた。身體は倦くて持て餘すやうである。
[Pg 63]空は晴れて、空氣は肌に快く、周圍は人出も多くて騷しいが、二人は元氣なく刻み足に步いてゐた。
「やあ、今日もやつてるな」と、織田は向うを見たので、健次も目を向けると、坂の中途に一團の群衆の中から、演說めいた聲が聞える。
「何だいありや、廣吿屋か」
「救世軍だよ」
「さうか」と、健次は別に氣にも留めなかつたが、自然に側へ近づいたので、立留つて、人垣の間からのぞくと、木綿の紋付を着た二十前後の靑年二人と、黑い袴をつけた若い女とが立つてゐて、その一人が今演說の最中である。左の手を腰に當て右の手を動かし、色の黑い角張つた顏を少し仰向け、
「今私が申上げた通り貴下方も罪の人です、早く悔い改めなければ誠の人間にはなれません、つまり罪惡のある人だから」
[Pg 64]と、ゴツ〳〵した調子で、甘味も辛味もない言葉を吃り〳〵叫んでゐるが、滿身に力を籠めてゐるため、顏は少し赤くなり、額には汗さへ浮んでゐる。
「あの男は何を云つてるんだらう、何の事やら分りやしない」と、健次の側の老人が笑つて去つた。
「馬鹿ツ」と何處からか聲がする。
子供が二三人前へ進んで、口を開けて不思議さうに見つめてゐるのみで、外の者は皆冷笑してゐる、通りがゝりに物好きに足を留めて、「何だ耶蘇か、喧嘩かと思つたのに」と、失望して行く者もある、誰れも眞面目に聞く人もないのだが、かの靑年は聲を張り肩を怒らせて
「皆樣懺悔なさい、神樣にお縋りなさい、日本國の興廢は軍人や政治家によつて决するのでありません、神樣の道を世間に行ふか行はぬかによつて定まるのであります」
と說く。
[Pg 65]健次は甲去り乙來る間に、知らず〴〵前に進んで、その演說振りを見つめてゐたが、織田は後から肩を叩いて、「おい君、行かうぢやないか」と聲をかける。
「まあ待て、も少し聞いて行け」
「何が面白いんだ、こんな者が」
と織田が云つたが、健次は何も答へず、目を傳道者から離さない。そしてかの靑年は話を續けて今日の社會の淫風や飮酒の害を堅苦しい拙い言葉で述べ立てゝゐると、誰れの惡戯か、小石が彼の肩を掠めて健次の前に落ちた、健次は思はず後退りしたが、かの傳道者は微塵も動かず泰然として說を進める。
かくて凡そ二十分もして、健次は摺り物を女の手から貰つて群衆を分けて出た。
「君は何故あれが面白い」と、織田は長く待たされたので恨めしさうな顏をする。
「面白いぢやないか。彼奴は地球のどん底の眞理を自分の口から傳へてると確信してる。あの顏付を見給へ。自分の力で聽衆を皆神樣にして見せる位の意氣込みだ。[Pg 66]人間はあゝならなくちや駄目だ」
「何にも感心しない君が、何故今夜に限つてあんな下らない者に感心する?」
「さうさ、僕は救世軍にでも入りたいな。心にも無いことを書いて、讀者の御機嫌を取る雜誌稼業よりや、あの方が面白いに違ひない、あの男は欠伸をしないで日を送つてるんだ、生きてらあ」
「はゝゝ」と織田は大口開けて勢無く笑つて、「僕は靑年が淺薄な說敎なんかして日を送るのが不憫になる」
「しかし淺薄や深刻は本當は問題ぢやないんだね、打たれやうが罵られやうが、自分のしてる事が何であらうと關うものか、もつと刺激の强い空氣を吸はにや駄目だ」
と、健次は歎息する如く云つたが、織田のぼんやりした顏を見上ると、急に「ぢや此處で別れやう」と、早口に云つて輕く會釋し九段の坂を下りた。で、「まだ話しがあるんだ」と、織田が呼留めた時は、もう人影に隱れてゐた。
[Pg 67]
(八)
まだ月初めであれば、健次も五六枚の紙幣はポツケツトに潜ませてゐるので、「櫻木」へでも行かうかと思つたが、お雪の顏も、もう見飽いて鼻につく。型に取つた定り文句は並べるが、キヤツ〳〵と騷ぐ外には能がなく、頭から足の裏まで何處を押したつて、碌な音一つ吐き出さぬ癖に、二三日續けて足を向けると、此方に思召でもあるやうに自分定めに自惚れたがる女中共を相手にして、拜顏料を差し出すのも馬鹿々々しいと今夜は思ひ留まつた。で、彼は西洋料理店でウヰスキーを傾け、二三品の洋食を貪り、それから氣まぐれに神田の西洋書店へ立寄つた。何か自分を刺激して、新しい生命を惹起す者はないかと、新着の文學政治宗敎から工業や銃獵の書類まで、殘る隈なく覘いたが、どれにも自分を魅するやうな破天荒の文字が潜んでる氣もする。で、あれか此れかと撰擇を重ねた揚句、遂に或露國革命家の自傳と、[Pg 68]偶然目についた棚の隅の或冒險家の北極紀行とを購つた、書物を抱えて上野で電車を下りたが、醉ひはまだ醒めず、家へ歸るのも厭であれば、ふら〳〵公園を步いて銅像の側のベンチに腰を掛けた。後へもたれて目を瞑つてると居睡りをしさうで、足元に力がなく、身ぐるみ地の中へ吸ひ込まれさうな氣がする。電車の音も遠い世界で響いてゐる如く、自分は此まゝ動けなくなるやうに感ぜられる。身をベンチの脊に投げ出し、帽子の落ちさうなのも關はず、心を夢現の境に迷はせてゐたが、書物が膝から辷り落ちるので、パツチリ目を開くと、木の葉が顏に觸れ、埃を含まぬ澄んだ空氣が身に染み、自分の周圍のみは薄暗いが、空には星が多く、目の下には燈火が煌めいてゐる。四五間前には黑い人影が二つ。深沈に話をしてゐたが、やがて暗闇の中に消えてしまつた。
彼れは孤獨の感に堪えぬ、淋しく心細くてならぬ。少年時代に自分より强い奴、脊の高い奴にぶつ付かつて喧嘩をしてゐた頃は、身體中に生命が滿ちて、張合のある[Pg 69]日を送つてゐたのだ。近松や透谷の作を讀んで泣き、華々しいナポレヲンの生涯に胸を躍らせた時分は、星は優しい音樂を奏し、鳥は愛の歌でも讀んでゐたのだ。しかし不幸にも世が變つた。何が動機か幾つの歲にか、自分にも更に分らぬが、星も音樂を止め鳥も歌を止め、先祖傳來の星冑も白金作りの刀も、威光が失せて、自分には古道具屋の賣物と變らなくなつた。今から思ふと、子供の折によく自分に喧嘩を吹かけた隣の鐵藏なんかゞ壞かしい。彼奴のお蔭でどの位元氣よく力んでゐたことか。今の自分はどちらかと云へば愛されて日を送つてゐる。箕浦も織田も桂田も、いやそれ計りぢやない、桂田夫人にも織田の妹にも櫻木のお雪にも愛せられてこそゐれ、さして嫌はれてはゐない。何處にも鐵藏が居ないのだ。「愛せらるゝは幸なり、愛する者も幸なり」、聖人だの詩人だのは勝手な定義を云つてやがる。少くもおれにや適用出來ぬことだ。愛せられゝば愛せられる程、自分には寂しくて力が拔けて孤獨の感に堪へぬ。いつそのこと、四方から自分を憎んで攻めて來れば、少し[Pg 70]は張合が出來て面白いが、撫でられて舐められて、そして生命のない生涯それが何にならう。「迫害される者は幸なり」、ていふ此奴は當つてる言葉だ。苦しめられやうと泣かされやうと、傷を受けて倒れやうと、生命に滿ちた生涯。自分はそれが欲しいのだ。
健次は立上るのも物憂さうに、かう考へてゐる中に、酒が醒めて夜風が冷たくなつた。彼れは主義に醉えず讀書に醉えず、酒に醉えず、女に醉えず、己れの才智にも醉えぬ身を、獨りで哀れに感じた。自分で自分の身が不憫になつて睫毛に一點の淚を湛へた。
靜かな風が足許の落葉を吹きころがし、樹上よりも二片三片頭を掠めて飛ぶ。
巡査が橫目で健次を見返りながら、悠然として步いてゐる。
健次は無意識にベンチを離れ、帽子を被り直して、暗闇の道を辿つて新坂へ出た。
「結婚?」と、思はず口へ出したが、その瞬間口元に皮肉な笑ひを洩らした。
[Pg 71]「ノンセンス!、結婚して家庭を造る、開闢以來億萬人の人間が爲古したことだ。桂田の家庭織田の家庭、家庭の實例はもう見飽いてゐる」と胸の底から答へる。
(九)
翌日は日曜であれば、一家は遲くまで眠り、九時頃に茶の間に揃つて朝食の膳についた。近來健次が家族と一緖に食事をするのは、殆んど日曜の朝のみである。年齡の割合に老人めいてもゐないが髯には白髮の多く、上目葢のたるんでる父と、肉付のよく目と口には品のある姉娘の千代と、健次によく似て小柄で愛嬌のある末娘の光とが健次を挾んで坐り、母は下女兼帶で甲斐々々しく立働いてゐる。
父は出勤時刻にせかれぬ爲、役所の話などをして、ゆる〳〵飯を食ひ、皆んなの顏を見て、獨りでほく〳〵喜んでゐたが、もう膳を離れて煙草を吸ひながら新聞を讀んでる健次に向つて、
[Pg 72]「何か面白いことがあるかい、何とか中將の姦通事件はどうなつた」
「今日は何も出てゐませんよ」
「どうも軍人が腐敗しちや困るな、武士道の精神が衰へるとそんなことが出來て來るんさ、今の中に社會に士氣を鼓吹しなければ、日本の國家も將來が案じられるて」
と、父は鼻水を膝に落して、「今ぢや學校敎育も柔弱に傾いてるからよくない、それに家庭で小い時分から武士の魂を叩き込まんから、堅固な人間が出來ないんだ、東京でも今は素町人ばかり跋扈するから、風儀が紊れるのさ」と、口には慷慨めいたことを云つたが、顏は如何にも呑氣で、此まで苦勞を重ねて來た影は何處にもない。そして素町人呼はりはこの人の口癖で、自分でもそれが愉快でならぬと見える。
「素町人でも何でも早くお金持になることさ」と、母は橫合から疳走つた聲を發した。
「本當だわ、お金がある方がいゝわ」と、お光は一も二もなく母に加勢する。
[Pg 73]「せめて男爵にでもなれるといゝけど、昔は旗下だつて武士だつて詰らないわね」
と、姉娘は眞面目に感じた。で、暫らく父子で、武士の魂だの素町人根性だのと言合つて、果ては無邪氣に笑つた。
笑つてしまつて、膳が片付くと、姉娘は今迄默つてゐた兄に向つて、
「兄さん、今日は上野で音樂會があつて、ソロの上手な西洋人が出るんですつてね、新聞にや出てゐなくつて」
「さうだね、出てるかも知れんよ」
「兄さんも聞きに被入しやいな、屹度面白いわ」
「私も行きたいと云ふんだらう、兄さんにお構ひなしで一人で何處へでもお出でなさい」
「そりや一人だつていゝけど、…………」
「切符を買つて吳れだらう、そりや眞平御免だ」
[Pg 74]「酷いわ兄さんは、自分一人で勝手に遊んでゝ、何一つ私の賴みを聞いて吳れたことはないんだもの」
「本當だわ、ねえ姉さん」と、妹娘も相槌を打つ。
「織田さんとこの兄さんはそりや、妹思ひよ、平生だつて何だの彼だのと世話を燒いて、お花見にでも音樂會にでも、屹度連れて行くんだわ。だから幾ら兄さんが學問が出來たつて、人間として織田さんの方がえらいのね」
「チエツ、生意氣云つてらあ」と、健次は橫を向いて、今日は如何にして暮らすべきかと考へてゐる。
「兄さんは何故音樂が嫌ひなんだらう、文學士の方は皆音樂や芝居が好きだのに兄さんばかりは、ちつとも趣味がないのね、音樂ぐらゐ硏究なさればいゝのに」
「だからお前は箕浦の女房にでもなつて、年中キユー〳〵ピン〳〵騷げばいゝ、彼奴とお前とはよく似合つてらあ、おれはもうお前のぺちや〳〵音樂だけでうんざり[Pg 75]してゐる」
姉娘は少し頰を赤くして橫を向いて、口を噤んだ。
父は健次の卷煙草を取つて火をつけ、二人の話を面白さうに聞いて、微笑々々してゐたが、二人が默つてしまうと、
「どうもおれには分らない、學問をした男が、音曲に夢中になるなんて餘程變だ、健次にはおれが昔から武士の精神を敎へ込んでるから、そんな柔弱な氣風に染まないんだらう」と、自分で首肯いてゐる。
「そんな武士の精神なんか下らないわ、お父さんは何ぞといふと兄さんの贔負ばかりして厭になつちまう」
「はゝゝゝ、そんな事を云ふ者ぢやない。兄さんは菅沼家には大事な寶だ、うんと勉强して立派な人間になつて貰はにや、おれが御先祖に申譯がないぢやないか、だから傍から邪魔をしないで、思ふ存分にやらせなくちや…………今の間貧乏がつら[Pg 76]からうと、それが何だ、貧乏を苦にして見苦しい根性になるのは、それが素町人だ。度々話して聞せたが、菅沼家は代々高潔な考を以て忠孝と武勇を勵んだ家柄で、系圖に少しの疵もないんだ。だから健次もよく心得て、名譽を世界に傳へるやうにせねばならん」
健次は平生父から小言を聞くことなく、他人の前でゞも自分の自慢をされるのを厭に感じてゐたので、今も自分が大英雄にでもなるやうに期待する口振を聞くと、急に不快になり、新聞を押のけて、ふいと自分の部屋へ逃げた。
「お父さんは兄さんばかり大事にするから我儘になるんだわ、學士にまでなつてゝ、親や妹の世話が出來なくちや駄目ですよ、お父さんももうお役所なんか止して大威張で兄さんに養なつてお貰ひなさればいゝのに、………本當につまらないわ、外へ出てはお酒を飮んで、何か話でもすると、惡口ばかり云つて、あれぢや何時まで立つても立派な人間になれやしないわ、え、そりやなれないに定つてるわ」と、姉娘は[Pg 77]さも口惜しさうに云ふ。
父はハツ〳〵と笑つて、「まあ默つて見て居れ、お前逹にや分るまいが、おれにや健次の氣象はよく分つてる、今に何か爲出かすに違ひないからよく見て居れ、男の腹の中は女にや知れんものだ、學士になつた位で、ハイカラでもつけたり、妹に花簪なんか買つてやつて喜んでるやうな健次ぢやない」
「お父さんは兄さんを買被つてるんですよ、だから老人には何にも分らないんだわ、今に後悔することが屹度あると私思ふわ」
「ハヽヽヽヽ、下らないことを云ふもんぢやない、お前らは今に健次の妹だと云はれて名譽に思ふ時が來る」
「私、ちつとも兄さんなんか當にしちやゐないわ、何であんな人」
と、新聞を引寄せて續き物に目をつけ、熱心に讀み出した。妹娘は緣側へ出て猫の頭を撫でながら唱歌を唄つてゐる。
[Pg 78]健次は障子を締め切り、机に向つて正座し、「革命家の自傳」を開いた。心を凝らし素早く走り讀みしてゐたが、著者が貴族の家に生れ幼時より宮中に出入する叙述を讀み終ると、書物を伏せて仰向けに寢た。自分とは緣の遠い境遇の異つた人の閱歷が如何程の興味があらうぞと失望した。そして机から書物を引下して、只氣まぐれに處々拔き讀すると、農夫に伍して革命を說いたり、國を脫走して他國に流浪するあたり、さも面白さうに書いてあるが、最早健次にはそれが光のない艶の失せた文字と見え、少時父から彰義隊や白虎隊の話を聞いた時ほどにも、胸も躍らず血も湧かず目を瞑つて心の動くに任せてゐると、自分の左右前後には火花も散らず、鯨波も聞えず、只銀座には埃が立つて、うぢよ〳〵と人の步いてる樣が頭の中に浮んで來る。
で、彼れは緣側の障子を開けて、庭を見ると、父は日曜每の役目を怠らず、草履を穿いて掃除をしてゐる。昨日と同じく空は冴え風もなく、日は生温かく照つて、竹[Pg 79]箒持つた老人の影のみが緩く動いてゐる。健次は欠伸をして、又書物を枕に寢ころび、兩手を投げ出して、うと〳〵してゐたが、暫くすると妹共の騷ぐ音がして、終ひには英語の朗讀が聞える、學校の懇親會で、織田の妹と二人で朗讀するといふ英文の對話を暗誦してゐるのであらう、太くて甘つたれた聲で、如何にも陽氣さうに讀んでゐる。
健次は心がむしやくしやして、俄かに起上り、帽子を被り出仕度をして、玄關まで出かけたが、又引返へして何氣なく妹の部屋へ侵入すると、妹は彼れを見上げて、ぱつたり朗讀を止めた。
「おい、一寸見せろ」と、健次は妹の手から洋紙を取上げて見ると、「二人の不幸なる娘」と題して、その會話が書いてある。
「今お稽古してるんだから、兄さんは彼室へ行つてゐらつしやい」と、妹は健次の手から洋紙を奪ひ返した。
[Pg 80]「おれが茲で直してやるから、讀んで見ろ」と、健次は帽子を被つたなり坐り込んだ。
「兄さんは直ぐ冷かすから厭だけど」と否んだが、漸く納得して、自分の分だけを拾つて讀んだ。筋は幼馴染の二少女が、一人は東北一人は九州と十年も離れてゐた後、或所で思ひがけなく巡り合ひ、その間の境涯の辛酸を語り合ふ哀れな物語。發音の法則は滅茶々々だがよく暗記してゐて、目を細め言葉の調子も哀れげに、表情澤山で朗讀し、「この次には二人とも、もつと幸福な人間に生れて來ませう」と、淚で別れる所で、會話が終ると、
「上手でせう」と、千代は兄を見て、息をついた。中々得意らしい。
「うん甘い、よく覺えられたね」
「もつとお稽古しなければ不安心だわ、織田さんに負けちや厭だから」
「あの女も稽古してるんか」
[Pg 81]「え、そりやしてるわ、外の人も一生懸命ですもの、私今日も午後から織田さんとこへ行つてよ」
「病人のある家へ行つたつて駄目ぢやないか、まさかあの家で、芝居の眞似なんかも出來まいし」
「一緖に外の家へ行くんだわ」
「箕浦の家へでも行くんだらう」
「行つたつていゝでせう、惡くつて」と、わざと拗て見せる。
「惡いと云やあしないよ、每日でも遊びに行くがいゝ、あの男なら親切に發音も直して吳れるし、音樂の議論ぐらゐ聞かせて吳れらあ、…………それからお前、織田へ行くんなら、これを持つてつて吳れ」と、健次は今思ひ出した如く、書齋から紙入を持つて來て、紙幣を反古紙にくるんで妹に渡し、「これだけ織田にやるんだ」
妹は不審さうに兄を見て、「これをどうするの、織田さんの兄さんに貸すのですか」
[Pg 82]「何でもいゝから、只持つてけばいゝんだ」
「だつて私が持つて行くのは變だわ、それに兄さんはよく織田さんにお金を貸すのね、何故織田さんばかり好きなんだらう、あの家よりやいくら私の家の方が貧乏だか知れやしないのに、本當に兄さんは變な人ね」と、妹は反古包をひねくつて、その金目まで覘いて見てゐたが、
「お前にやるよりや、織田にやつた方が、いくらやり榮がするか知れやしない」と、健次は無邪氣に笑つて、當もなく戶外へ出た。妹は坐つたきり目を据ゑて、「兄さんは何故だらう、お鶴さんに心があるから、あんなに織田さんを大事にするのぢやないか知らん、さう云へば思ひ當ることが幾らもある、屹度さうだ、戀で煩悶してるんだわ」と、自分の身に引くらべて想像に耽つてゐた。
(十)
[Pg 83]健次は短かい秋の一日を持餘した。上野の公園をぶらつき、或は珈琲店へ入り、或はビアーホールへ入り、それから社の同僚を訪ねて、氣乗りのせぬ話に相槌を打つて、漸く二三時間を空費し、その宅を出て、湯島天神の境内を通り拔けて歸路に就いた。特筆すべき事件は少しもない。忙しい人は仕事に心を奪はれて時の立つを忘れ、歡樂に耽れる人も月日の無い世界に遊ぶのであるが、此頃の健次は絕えず刻々の時と戰つてゐる。酒を飮むのも、散步をするのも、氣㷔を吐くのも、或は午睡をするのも、只持扱つてる時間を費すの爲のみで、外に何も意味はない。そして一月二月を取留めもなく過しては、後から振返つて、下らなく費した歲月の早く流るゝに驚く。
彼れは激烈な刺激に五體の血を湧立たさねば、日に〳〵自分の腐り行くを感じ、靑春の身で只時間の蟲に喰はれつゝ生命を維いでゐる現狀を溜らなく思つた。そして空想を逞うして色々の刺激物を考へた。普通の麻醉劑は何の効目もない、酒なら燒[Pg 84]酎かウヰスキーを更にコンデンスした物、煙草なら阿片、戀なら櫻木のお雪や織田のお鶴のやうな女と、甘つたるい言葉を交換したのでは微醉もする氣遣はない。正義も公道も問題ぢやない。自分を微温の世界から救ひ出して、筋肉に熱血を迸らすか、膓まで蕩ろかす者、それが自分の唯一の救世主だ。革命軍に加つて爆裂彈に粉碎されやうとも、山賊に組して縛首の刑に合はうとも、結果が何であれ、名義が何であれ、自分を刺激する最初の者に身を投げて、長くても短かくても、或は即刻に倒れてしまつてもよい。そしてこんな刺激物が自然に自分の前に現はれねば、自分から進んで近づいて行く。渦が捲き込んで吳れねば、自分で渦の中へ飛び込む。鐵藏がゐなければ自分で鐵藏になつて喧嘩を吹かけて行く。戰爭も革命も北極探檢も人間の怠屈醒ましの仕事だ。平坦の道には倦むが、險崖を攀上つてゐれば、時をも忘れ欠伸の出る暇もない。
「よし渦へ入るか崖を上がるか」と、彼はステツキを持つた手に力を入れたが、その[Pg 85]手は直ぐ弛んでしまう。社會のため主義のため理想のためと思へばこそ眞面目で險崖上りも出來るが、初めから怠屈醒ましと知つて荊棘の中へ足を踏込めるものか。理由もないのに獨りで血眼になつて大道を馳せ廻れるものか。何故每日の出來事、四方の境遇、何一つ自分を刺激し誘惑し虜にする者がないのであらう。只日々世界の色は褪せ行き、幾萬の人間の響動は葦や尾花の戰ぐと同じく無意義に聞えるやうになつた。自分の心が老いたのか、地球其自身が老い果てゝ、何等の淸新の氣も宿さなくなつたのであらうか。
彼れは目を移して道の左右を見た。夕日は電信柱の影を金物屋の壁に印してゐる。壁の隅には薄墨で「法樂加持」と書いた大福寺の廣吿が貼りつけられ、その片端が剝げかゝりふら〳〵動いてゐる。牛乳配逹と點燈夫とが前後して走つてる後から、白い帽子を戴き裾の廣い黑衣を着け、腰に長い珠數を垂れた天主敎の尼が二人、口も閉ぢ側見もせず、靴は土を踏まぬが如く、閑雅に音をも立てず步んで來る。深く[Pg 86]澄んだ空を煙突の黑煙が搔亂し、その側を一列の鳥が橫切つた。晝間の温かさも急に薄らいで、健次は肌寒く感じた。
彼れは足と心を疲らせて、兎に角家へ歸つた。妹は他所行の大切な紋羽二重の羽織を着たまゝ、茶の間のランプを點火てゐた。
「あら、兄さんお歸り、私も今歸つたところよ」と、マツチを火鉢へ棄てゝ、艶艶しい顏を見せた。
「織田は何をしてた」
「勉强してるわ、でね、お金を渡すと、何だか極り惡さうに受取つて、兄さんにお禮を云つてたわ」
「さうか」と、健次は所在なさに、火鉢の前に片膝立てゝ坐り、火箸をいぢつてる。妹はその側で羽織を脫いで疊みながら、ちよい〳〵兄の顏を見上げては、
「織田さんは二三日中に兄さんに遇ひたいと云つてましたよ、是非話を定めること[Pg 87]があるんだつてね、兄さんも知つてるでせう、どんな話だか、私も織田さんの言振りで荒方推察してるけど。」
「さうか」と、健次は氣に留めぬ風なので、妹はわざと調戯ふ氣で、
「當てゝ見ませうか、屹度あの事だわ」と莞爾した。
「あの事つて鶴さんの緣談だらう」と健次が小憎らしい程平氣なので、妹は、
「兄さんはよく御存じね、同意するんでせう、兄さんも、」
「どうかねえ」
「どうかねえつて、それでいゝぢやありませんか、其の事で私兄さんに話があつてよ」と云ひかけた所へ、母が勝手から入つて來たので口を噤み、羽織を簞笥へ收めた。
「さあ御飯だ〳〵」と、母は膳立てして、汁のこぼれてる鍋を火鉢に掛けた。
健次は「まだ飯は欲しくない」と云つて、自分の居室へ入ると、妹は後から駈けて[Pg 88]來て、ランプを點火た。平生に似ず親切に煙草盆まで掃除して持つて來た。
で、健次が机に肱を突いて煙草を吹かし、相手にする風はないのに、その傍に坐り、
「でね、兄さん」と口を切る。「今の話、兄さんも考へてるんでせう、どうなさるの」
「何だい織田の事か、それを聞いて何にする」と、健次は不審さうに妹の顏を顧みた。
「何つて事はないけど」と、目を外して「私、今日織田さんからも、お鶴さんからも色んな事を聞いたのよ」
「何を?」
「織田さんの方ぢや、もうちやんと一人で定めてるんだわ、それに向うでは、兄さんも家のお母さんもお父さんも、屹度承知することゝ思つてるらしいのよ、お鶴さんも兄さんから聞いたのか、今日は樣子が變つてるし、明日お稽古に私の家へ被[Pg 89]入やいと云つても、何時も來たがる癖に厭だつて云ふんですもの、」
「おい、下らない話は止せ、」
と、机に向つて、經濟書を開いて、ぼんやり讀んでゐたが、妹は尙ほ側に坐つてゐて、
「だつて兄さんも早く結婚なすつた方がいゝでせう、家の爲から云つても、兄さんの身が定つて、お父さんの責任を輕くしなくつちや仕樣がないですもの、それが一番の孝行だと思ふわ、それにお鶴さんは一家の主婦として缺點がないんだから、私からも兄さんに勸めたい位よ」
「お前どうかしたのか、酷く今日は眞面目臭つた事を並べるね」と、健次は笑つて、「お前はよくお鶴さんの惡口を云つて、あれぢや家は持てないなんて云つてたぢやないか、急に變節したね、御馳走にでもなつたんかい」
「あら酷いわ、私織田さんとこで少とも御馳走なんかになりやしないわ」
[Pg 90]「でも御馳走になつた顏付をしてるぢやないか。箕浦の家へも寄つたのか」
「えゝ」と妹は曖昧な返事をする。
「お鶴さんと二人で朗讀でもして騷いだのか」
「えゝ、兄さんによろしくと云つてたわ」
「お鶴さんと一緖に行くと、あの男が優待するだらう」
と、健次は何氣なく云つたが、妹の耳にはそれが銳く響いて、急に考へ込んだ。健次は箕浦から屢屢戀愛論を聞かされたのだが、先日或雜誌に載つた彼れの叙情的の美文を讀んだ時、それが彼自身の事を書いてるので、相手は織田の妹だと感付いた。そして自分の妹の竊かに箕浦を思つてるのが可笑くもあり、可愛さうでもあつた。しかしそれを妹に知らせる氣でもなかつたのだ。で、
「學校の懇親會は何日あるんだ」と、聞きたくもないことを、わざと柔しい聲で問うた。妹は碌に答へもせず、暫くして浮かぬ面を上げて、
[Pg 91]「兄さんは結婚する氣ぢやないんですか」と、さも妹の身の上にも重要問題ででもある如く感じてゐる。
「お前はおれを織田の妹と結婚させたいのか、それが何かお前の利益になるんか、變だね」と、健次はお轉婆の妹の生眞面目な態度を怪んだ。
「私の利益なんて酷いわ、兄さんの爲を思つてるから聞いて見てるのに」と、袂の先をひねくつて言葉もはき〳〵しない。
「有難う、しかしおれは近々下宿屋へでも行つちまうんだ」
「本當に?」と、妹は目を丸くして「何故下宿屋なんかへ」
「何故でもないさ、もうお前方のお喋舌も聞飽いたから、」
妹は兄の氣心を知兼ねて、只「變な人だわ、お鶴さんを好いてやしないのか知らん、それとも表面ばかりあんなに澄ましてるのではなからうか」と思つてゐたが末娘のお光が「姉さん、早く被入やい、御飯だよ」と、駈けて來て、引張つて茶の間へ行つた。
[Pg 92]
(十一)
四五日はかくて過ぎた。目を醒ますと、屋根には霜を置いて朝日がキラ〳〵と照つてることもある、雲の低く垂れてることもある。培養せぬ菊は蟲に喰はれて自然に萎れて行く。父子は前後して出勤する。健次は每日同じやうなことを考へて、一日の仕事を濟ませて歸ると、相も變らず母は窶れた顏をして待つてゐる。一家には何の波瀾もない。母は年中廢屋に燻ぶつてゐるのだから、偶に戶外へ出るか、異つた人が訪ねて來ると、見たり聞いたりした何でもない事を、物珍らしさうに誇張して問はず語りをするのを樂みにしてゐる。妹の千代は思ひ出しては朗讀の稽古をしてゐるが、平生ほどお喋舌りもせず、多少鬱いでる風も見える。織田は忙いので手紙を送つたきり訪ねて來ない。先月から赤痢が流行して、根岸近傍にも大分患者があ[Pg 93]るやうだが、菅沼の一家は數年來風邪以上の病人はない。で、父は家族が皆健全で目出度々々々と一人で喜んで、自分が少し風邪氣があらうと腹加減がよくなからうと、痩我慢を出して出勤してゐる。しかし今度の寒さ當りは我慢し切れなかつたと見え、或日役所を早退けにして歸り、お定りの晚酌も止して、行火へもぐり込んでしまつた。
健次は父の代りに海苔を肴に一本ガブ呑みにして、書齋へ入つたが、寢るには早し、ランプと睨つくらをしてゐた。すると、その朝桂田夫人の筆で晚餐會招待のハガキの來たことから、桂田に借りた「東西倫理思潮」を、本箱の上に置いたまゝ手にも取らず、談話筆記に行くのも忘れてゐたことを思ひ出し、それを取出して飛び〳〵に讀みかけた。
西風がカタ〳〵と雨戶に當り、隣家の柿の葉の散る音も幽かに聞える。父は時々呻吟てゐる。
[Pg 94]次第に健次の目は書物を離れ、銳い神經は風の音と父の呻吟とに煩はされ、火鉢へ俯首いて眉を顰め、煙草の吸口を嚙んでゐると、門の戶がそつと開いた。それが木枯しで自然に開いたやうで、健次は思はず薄氣味惡く感じた。忍びやかに敷石に音がする。誰れかが來たらしく、やがて低い聲で母との話聲がする。
「あゝ織田だな」と、健次は離れ島に人の訪ねた如く、救助の舟でも來た如く望みを掛けて待つてゐた。
暫くして織田は「ヤア」と、例の頓間な聲をして入つて來て、火鉢を隔てゝ坐つた。新調と思はれる綿入を着て、髯も剃つて、髮も奇麗に分け、愉快さうな顏付をしてゐる。
「非常に遲く來たね」
「遲くなくちや君がゐないかと思つて、」と、織田は珍らしく敷島を袂から出して火を付け、
[Pg 95]「僕は今日非常に愉快だ」
「愉快だつて、君からそんな言葉を聞くのは不思議だ、親爺の病氣でもよくなつたのか」
「いや、親爺は變らないがね、今日僕は桂田さんの紹介で新職業に有ついたんだ、神田の本屋で辭書の編纂だが、報酬も非常にいゝんだよ」
「さうか、面倒臭い厭な仕事だね、辛抱出來るかい」
「面倒臭いなんて云つた日にや、いゝ仕事はありやしないぜ、報酬さへよけりや、僕は何でもやる、それにね君、僕は長編を昨日譯してしまつたよ、あの金が入ると、借金を殘らず拂へるし、醫者の方も奇麗に片付くから一安心だ、君にも一杯奢らあ」
織田は平素健次を無二の親友と思ひ、互ひに喜憂を分つつもりでゐるので、今日も吉報を傳へに來たのだ。
「そりや結構だ」と、健次は口先では云つたが、心ではこの魁偉なる人間が、信州[Pg 96]訛の拔けぬ頭の眞中の禿げた老母と、頰の赤いよく肥つた妻君のために、年中專念一意脇目も振らず稼いでゐる樣を憐憫に感じた。
「僕も二三年踠き通しだつたが、これからは少しは樂になるだらう、隨分君にも迷惑を掛けたがね、もう大丈夫だ。節儉すりや月末の拂ひに困ることはない、何しろ學校の月給は三十圓だから遣切れなかつたが、辭書からは六十圓づゝ吳れるんだよ、丁度倍だからね、それに内職に飜譯を續けてやつてけば、小使錢は取れるし」と、織田は自分の現狀を想つて悅しくてならぬ風だ。で、尙世帶話を續けて、「家賃は收入の五分の一を超過してはならぬ」とか、「消費組合に入れば幾ら宛經濟になる」とか。終には將來の家計の豫算計畫を細かく說き出した。
妹共はもう寢たのか、家の内は靜かだが、隣家から赤兒の泣聲が洩れ聞え、柿の葉もカサ〳〵と音を立てゝゐる。健次は火箸で炭籠を引寄せどつさり添炭した。最早酒の氣もなくなつて寒い。せめて織田が何時ものやうに苦痛を訴へるのなら、聞い[Pg 97]ても多少張合もあるが、大得意で生活の勝利を談ずるのだから健次は聞いてゐても眠くなるばかり、
「それでね、父の病氣がどうかなり次第、もつといゝ家へ轉宅して新しい生活を初めるつもりだ、それについて妹だけ持て餘し者だが、あれに對する責任さへ免れりや、僕の重荷は卸りてしまうんだよ」と、織田は抑揚緩急のない調子で云つて相手の顏を見て答を促した。
健次は五月蠅い奴だと思つて、何か云はうとした所へ、母が茶盆と菓子皿を持つて來た。「今織田さんに頂いたんだよ」と、母は茶を注いで、中腰で二つ三つ世間話をして行つた。皿にはチヨコレート、クリームが黃い紙に包まれて並んでゐる。健次はそれを手に取つて、端を前齒で嚙んだが、厭な顏をして、喰餘しを机の端へ置き、
「もう君、緣談は止さうぢやないか、僕はもう聞きたくない」と、命令的に云ふ。[Pg 98]織田は壓へ付けられて暫らく默つてゐた。
「だが、君の爲にも結婚する方がいゝと思ふ、今も母堂に話すと母堂も賛成して、さうなると結構だと云つてる、それに何だよ」と、四圍を憚つて聲を低くし、「君のシスターについても僕は考へてる、今度の事は四五日前に鶴にもよく話したんだがね、その時彼女に聞くと、お千代さんは箕浦を思つてるんださうだ、それだと丁度いゝぢやないか、シスターを箕浦へやつちまつては、何なら僕が周旋する。」
「だつて君は箕浦は嫌ひだと云つてたぢやないか」
「しかし君のシスターが好いてりや仕方がないさ、君も早く妹を片付けて、定りをつけて、活動し玉へ、君は我々とは異つて才があるんだから幾らでも發展出來る」
「うまく煽動るね、煽動たつて駄目だよ、僕に發展の道がある位なら、君等に云はれなくても疾くに發展してる」と、健次は肱枕で橫になつた。
「箕浦の自惚家でも君にや感心してるよ、二三日前にも見舞ひだつてやつて來て、[Pg 99]何時か君は異彩を放つだらうと云つてた、實はその時妹を君におつ付けたいと彼男にも明したのだ」
「箕浦は何と云つてた」
「彼男かね」と、織田は云ひかけて躊躇して、「別に何も云やしない、丁度いゝだらうと云つてた」
「さうでもなからう、しかし君は色んな事をするね、千代にも何か話したね」
「いや碌に話しもしないが、妻や妹を通して多少聞いたことはある」
「そうか、彼女が此間、君の家から歸ると、僕に向つて頻りに結婚を勸めるから、變だなと思つたが今分つた、彼女も歲が歲だけに生意氣な事を考へてやがらあ」と、舌打して起上つた、健次は腹の中で、「妹は箕浦に對する競爭者のお鶴を自分に當がつて、箕浦を一人占めにしやうと思つてるんだらう」と、妹の腹の底まで小憎く感じた。あんな男を珍重して戀とか何とか云つてるのを蟲唾の出る程厭に感じた。
[Pg 100]織田は健次の目付の銳くなるを見て、「何を考へてるんだ」と聞く。
「君も餘計な世話を燒くね、自分の事だけで飽き足らなくて」
「餘計な世話ぢやない、友情から考へたんだ、一家の幸福のために僕の云つた通りにし玉へ、どうせ通る道なら早く通つた方がいゝぢやないか」
「いゝ仕事に有付いたと思つて馬鹿に大家めいた事を云ふね、しかし僕は君や箕浦とは異つて何處へ行くんか方角が取れんから仕方ないさ、」
「ぢや僕の說は用ひないんか、それで君はどうするんだい、責任の重い身體で」
「さあどうするかね」と、他人事のやうに云つたが、急に鬱陶しい色を呈した。
「君は學生時代と同じやうな氣でゐるが、よく家族の事を思はんで浮々してられるね、目の前に君の責任がころがつてるぢやないか」と織田は眞面目な口調を止めぬ。
「だから僕は家が厭だよ」と、健次は又橫になつて目を閉ぢて、「君とも長い間交際てるが、福音も聞かせて吳れんね、」と、云つたきり、口を利かなくなつた。
[Pg 101]で、織田が母と話して歸つた後、健次は冷たい蒲團の中へもぐり込んで、「彼奴も馬鹿野郎だ」と呟いた。しかしこれは他人の間で氣㷔を吐いてる時に叫ぶとは異つて、滅入つた絕望の聲だ。
(十二)
翌日は妹娘寵愛の子猫が、晚餐の總菜用の魚を啣へて緣の下へ逃げ込んだので、一家は大騷ぎ。父は褞袍を着たまゝ寢室を出て來る。母は靑筋立ゝ怒鳴り立てる。暫らくして何食はぬ顏の猫は鈴を鳴らして長火鉢の側へ歸り、目を細くして口べたを甜めずつてゐると、皆んなに頭を打たれた。母の愚痴が靜まると、家族は煮豆で晚餐を食つた。
健次はかねて賴んで置いた或社員の知せで、日暮前に月島の或下宿屋の空間を檢分した。廊下に立つと、安房上總の山々が夢のやうに、ぼんやり水煙の向うに浮び、[Pg 102]强い風が絕え間なく寄せて來る。隣室の話聲も風に浚はれ波の音に沒して聞えぬ。彼れは幼い頃讚岐の濱で恣まゝに鹽風を浴びて遊んだことを朧氣に思ひ出した。その瞬間「新生涯を此處で始める、根岸の古屋を去つて腹一杯鹽氣を吸はう」と决し、二三日中に返事をすると約束した。で、家へ歸ると、母や妹に聞された一日中の大事件は猫と魚の話であつた。
(十三)
翌日桂田の家で晚餐をかねて小園遊會が開かれ、博士夫妻の親戚の靑年男女、箕浦織田等の家族、凡て十數名が招待された。健次もその一人だが、生憎編輯締切の當日なので、原稿の計算やら雜誌の體裁やらの相談を持掛けられ、漸く夜店商人が店を出しかけた時分雜誌社を出て、生温かい空つ風に曝され、千駄木へ向つた。既に來濱は揃つてるらしく、笑聲も賑やかで、玄關には奇麗な女下駄や、磨き立てた靴[Pg 103]が幾つも並んでゐる。客間へ通されると博士の甥に當る久保田と箕浦とが食卓を隔てゝ博士と向ひ合つて、盛んに話をしてゐた。
襖を開けると三人は一緖に頭を上げて健次を見た。床の間には大輪の白菊を生けてあり、鴨居には嵐の跡の海波を寫した新しい油繪を揭げてゐる。少尉の軍服を着けた久保田の顏は赤銅色をして、まだ文明に疲れない太古の活氣に漲つてゐる。箕浦の靑い寶石入の襟留は、その磨き立てた白い顏黑い眼と相照らして光つてゐる。
「菅沼さん暫らくですね、相變らず元氣がいゝつてぢやありませんか」と久保田は快活に笑つた。
「どう致して、一寸見渡したところ、元氣は貴下一人で專有してるやうだ」と、健次は久保田の側に坐つた。卓上にはクユラソーの德利が置かれてゐる。
「さあやり玉へ、貴下が來なくちや、僕の相手がない」と、久保田は杯を差し、「今日は散々に君の噂をしたんですよ、箕浦君と叔父とでね、頻りに貴下の攻擊を始め[Pg 104]るから、僕が一人で辯護しましたハツ〳〵〳〵」
「さうですか」と、健次は杯を受けて、箕浦の顏を見た。箕浦は少し頰を赤め、
「僕は攻擊したんぢやないよ」と顏を外して、「久保田さん、今のお話の續きを聞かせて下さい、非常に面白い、貴下の話振りがお上手だから、僕には演習の模樣が目に浮ぶやうです」
「いや、もう止しませう、それより庭へ行つて、娘子軍を襲はうぢやありませんか」と、久保田は立ちかゝつた。
「何を話したんです、去年は貴下の決闘奬勵談を聞かされたが、今年はもっと痛快な新問題があるんですか」と、健次が問ふ。
「なあに、僕が大演習に行つたから、今もその話をしたんです。しかし下らないさ、演習話なんか。新聞で見てると面白さうだが、實際飯事見たいな者ですからな、あんな事をやつたつて、實戰の役に立ちやしない、先づ昔のお鷹狩のやうな者さ」
[Pg 105]久保田は緣側を下りて赤鼻緖の草履を穿き、健次を指招いた。「さあ菅沼さん被入しやい、貴下は我黨の士だから」
「僕は少し休んでから行きます」と、健次は獨りでキユラソーを三四杯傾けた。博士と箕浦とは哲學上の問題を論じ出した。庭には花行燈が二つ三つ點され燈火の側では蓄音器で喇叭節か何かゞ聞こえ、草花の間を黑い影が動いてゐる。さして廣い庭でもないが、夜目には奧深く、一際すぐれた樅の木は冴えた空を摩してゐる。
「織田は來てゐないか」と、四方を見廻した揚句、箕浦に問うた。
「あゝ仕事が忙しいと云つて、出て來ない」
「彼れの妹は?」
「來てるよ、君の妹と一緒に」
「さうか」
蓄音器が止むと、久保田の陽氣な太い聲が庭一杯に廣がり、やがて小兒等の萬歲の[Pg 106]叫びと女共の笑ひ聲が聞える。
「君、彼處へ行かうぢやないか」と、健次は箕浦の躊躇するのを無理に手を執り、庭に連れ出した。博士は食卓に肱をついたまゝ、二人の後姿を見送つてゐる。
箕浦は久保田が四五人の子供を相手に調練の眞似をしてるのを見て、步を止め、「あんな騷ぎの中へ行つても面白くない、何處か外を散步しやうぢやないか、君に話したいこともある」
「さうか」と、健次はどうでもいゝと云つた風で、箕浦の後について植込みに添うて、人氣ない方へ向つた。丈長きコスモスが風に搖られて、淡く白い花瓣が肩に觸れる。箕浦はその一輪を手折つて、鼻で嗅いで弄んだ。
「君も此家へ來出してから、もう五六年になるね」と、健次は突如に聞いた。
「うん、君が一番の古參で、織田と僕と、皆んなよく來たものだ」
「しかし君や織田はこの家に何か跡を殘してるが、僕は物を壞した丈で、何んにも[Pg 107]貢献してゐないね、この草花も大抵君が種を卸したんぢやないか、客間の油繪だつて君が周旋して誰とかに書かせたのだし、つまり君の盡力でこの家もこの庭も大分色艶がついたが、僕の見た所ぢや肝心の先生夫婦は大分艶氣がなくなつたね、君にやさう思はれんかい」
「だつて二人とも以前と異はんぢやないか、今夜は妻君もひどくめかして若々としてる」
「しかし幾ら飾つてゝも、心の艶は失せてる。僕にや二人が奇麗なお墓の中に埋もつてるやうに見える、あれで妻君は獨りで藻搔いてるが、とても拔け出らりやしないよ、君なんかにも色んなことを云ふだらうが、つまり我々の若い息を嗅いで、腹の蟲を慰めてるんだ」と、健次は嘲けるやうに云つた。
「馬鹿な事を」と、箕浦は淋しく笑つて、「先生の家には何時來ても穩やかな柔らかい空氣が漂よつてるぢやないか、僕はこんな平穩な生涯を送りたいと思ふ」
[Pg 108]「千駄木の哲人に對して、麹町の哲人になるんか、まあそれもいゝが、君は此頃は妻君に可愛がられてゐないね、去年は箕浦さんでなくちや夜も日も明けなかつたけれど、もう厭いてゐるらしい、寵愛が僕に移つてる」
「だが、妻君は我々の仲間にや、誰れに對しても親切だよ、先日も織田のことを心配してたから、僕がよく話をして置いた」
「そりや妻君も暇だから、人の世話を燒いてるが寵愛は別だね、目付きが違ふ、言葉の味が違ふ、一人で焦慮て一人でペスミスチツクになつてるから面白い、しかし君にや分るまい、一年間寵兒であつた癖に」
「そりや君が主觀的に見るからさう見えるんだ、妻君は誰れに對しても平等で、何時も同じ調子ぢやないか」
「君にやさう見えるんだね、ぢやそれでもいゝ」と、健次は無愛相に云つて口を閉ぢた。蟲の音が遠く近く聞こえる。
[Pg 109]「菅沼さん〳〵」と、久保田の呼ぶ聲がして、健次は振向いたが、箕浦は首肯いたまゝ草花の周圍を步みながら、
「實は過日から君に會ひたかつたのだ、僕の手紙は見て吳れたらう」
「むん見たよ、用は何だつたか、もう忘れてしまつたが」
「僕は近々に慈善音樂會を企てゝるんだが、君も賛成して盡力して吳れ玉へな、先生も奧さんも助力して吳れる筈だが、君も助けて吳れ玉へ」
「音樂會か、僕にや適任でないが、しかし君がやるなら助けてもいゝ」
「是非賴むよ、尙詳しいことは後で話すがね、僕はその會で自分で新作を朗讀するつもりだ」と云つて、箕浦は聲が沈んでゐる。
「此頃は頻りに朗讀が流行る」と、健次は獨言のやうに云つて「君は大論文を書いてるさうだが、まだ出來ないか」
「あゝ、も少しになつて完成しない、それに此頃はいろんな疑問が湧いて來て、思[Pg 110]想が錯亂していかん」
「何故」
「何故つて、考へりや考へる程、自分の立てた理窟が分らなくなる、織田のやうな單純な人間は幸福だね」
「まあ幸でも不幸でもいゝさ、僕はもう腹が減つて來た、彼方へ行つて何か食はうぢやないか、織田の妹やマダムにも會ひたくなつた」と、健次は植込の中を橫切り、黃い花、白い花を無慈悲に肱で散らした。箕浦は相手の顏を見て、低い聲でわざと平氣に、
「君は結婚するのか」
「織田が頻りに運動してる、どうなるかね」
「その方がいゝだらう、定りがついて」
「何が定りがつくもんか、それよりや君こそ早く妻君でも情婦でも拵へ玉へな、僕[Pg 111]にや女て者あ肉の塊としてあるから、口先や目つきで慰藉されたり愛を濺がれたりする必要はないが、君はさうはいかない。圓滿平穩なスヰートホームて奴を造らなくちや、君の全身が滿足されまい、僕は君の作物を讀む每に、凡てが妻君を欲する不安の聲を發してるやうに感ずる。織田も君も僕も學校時代に色んな夢を見て、世の中へ出ると、皆失望したり、考へも變つたが、君は終始一貫してる、君の沈鬱症は戀人の手で電氣を掛けて貰ひさへすれば直ぐ癒る。だから早くさうし玉へ、織田のやうに食ふに困るんぢやなし」
「君は故意に不眞面目なことを云ふ。惡い癖だ」と、箕浦は少し顏を赤らめ、「婦人に對しても、戀愛に關しても、もつと眞面目に深い意味を見なくちやならんよ」
「さうかねえ」と、健次は冷かに云つて「併し僕自身がさう信ずれば仕方がない、人間は寄生蟲、女は肉の塊、昔から聖人がさう云つてる」
「まさかそんな聖人もあるまい、君は己れを欺いて趣味や情熱を蔑視してるんだ」
[Pg 112]と、空を仰いで、「見玉へ、空は冴えて、月も鮮かに出かゝつてる、蟲でも秋の氣を感じて鳴いてる」
「ふゝん」と健次は嘲つたが「しかしね、僕等寄生蟲にも血が流れてるし腦が働くから、餘計なことを考へていかん、僕の拳にも力がある」と、秋風に長い髮を吹かせ、思ひに沈んでる箕浦の手を握つて急いで步んだ。
月は木の間に洩れて、新しい光を緣側に投げてゐる。今迄庭で戯れてゐた連中も大方は客間に集まり、二つの食卓の上には鮨や柿や栗が盛上げられてゐる。健次は緣側に立つて一座を見渡した。片隅に妻君とお鶴とお千代とが鼎形に坐り、鮨を貪りながら、何か話しては笑つてゐる。光を正面に受けて、妻君の白い齒と、紅と碧の二つの指環のちら〳〵動くのが目を惹いた。
「菅沼さん、此處へ來玉へ、貴下がゐなくちや駄目だ」と、久保田が呼んだ。彼れは顏を熟柿のやうにして、胡坐を搔き、その前には博士が三四歲の男の子を抱へて、[Pg 113]獨り笑壺に入つてゐる。
久保田の聲を聞いて、妻君もお鶴も箸を置いて健次を見上げた。健次は目禮して
「お鶴さんにも暫らくだね」と、柿の皮を入れた盆を跨いで、三人の側へ割込む、
「箕浦君來玉へ、便でに鮨でも抓んで來て吳れ」と、通路を塞がれて、ぐず〳〵してる箕浦を指招いた。
「兄さん、久保田さんが呼んで被入しやるぢやありませんか、彼處へ被入しやらなくちや惡いでせう」と、千代は兄をこの平和な群から追出さうとする。
「後で行くから、お前は酒でも取つて來て吳れ」
「彼處で召上ればいゝに」と、千代は不承々々に立つて行つた。
お鶴は片袖を抱くやうにして袴の上に置き、半は口を開いて、澄ました顏で正面を見てゐたが健次が壓制的にその側へ箕浦を引据ゑると、
「兄がよろしく」と會釋した。
[Pg 114]「お鶴さんも今日は淑女然としてるね、それより箕浦君に酌をして、うんと飮まして下さい、今日はこの人も憂愁の雲に鎖されてるから」と、健次は妹の手から銚子を奪つて、お鶴の前に置き、箕浦の手に盃を持たせ、
「さあ飮み玉へ、君のライフはこれで幸福になる、君の不安の念も消えてしまう」
「僕は飮みたくない」と、箕浦は不快な顏をして、盃を下へ置いた。
「飮みたくなくても、僕が勸めるんだから飮んでもいゝだらう」
「菅沼さんはほんとに壓制的ね」と、妻君は眉を顰めて、口元で笑つた。
「ぢや仕方がない、僕が飮まう、さあ注いで下さい」
お鶴は伸び上つて、不格好な手付で二三度酌をした。
「兄さん、あまり召上つちやいけなくつてよ、今夜ね、お父さんが話したいことがあるから、早く連れて歸つて吳れつて、私云ひつかつたのよ」と、千代は兄の顏をのぞき込んで小聲で云つた。
[Pg 115]健次はそれには答へず、盃に嚙りついてガブ呑を續けてゐた。一座は皆食つたり飮んだりして腹を脹らせ顏を赤らめ、次第に賑やかになる。久保田の蠻音はますます高く、女共の笑聲を壓倒して響いてゐた。すると幹事役の書生が閾の外に立ち、羽織の紐をひねくつて餘興の報告をした。
第一、菅沼令孃と織田令孃の英語朗讀。來客は座を改めて拍手した。健次はそれと見るや直ちに小皿に盛つた鮨を持つて、書生部屋へ逃げ込み、肱枕で橫になり、手掴みで食ひながら、室を見廻してゐた。笠なしの小洋燈の光が細く照らし、片隅には小さい本箱と赤毛布でくるんだ夜具があるのみで、裝飾は外に何んにもないが、只机の側の壁に新聞附錄と思はれる美人の石版摺が張りつけられてある。朝夕その持主の無聊を慰めてゐるのであらう。
健次は酒氣を發して、うと〳〵してゐた。客間では拍手相ついで、尺八の音が消えるとピアノの音が聞える。
[Pg 116]「兄さん被入しやい、もう歸るんですよ」と、千代は戶を開けて聲高く呼んだが、返事がないので側へ寄つて搖り起した。それでも返事がない。
「仕樣がないね」と呟いて去つた。後で健次は目をパツチリ開けた。妹の締切らなかつた戶がギイ〳〵と幽かな音を立てゝ動いてゐる。久保田の詩吟とドダンバタンの音が流れ込む。
「オヽ騷々しい」と呟いて、妻君は手燭を以て二階から下りて、何氣なく書生部屋の戶口を覘いて「あら菅沼さん、此處にゐるのですか、どうなすつて」
「又千代なんかの金切聲を聞かされちやならんと思つて逃げて來たんですが、寢ると立つのが面倒臭くつて」と、健次は大儀さうに坐つた。
「隨分無性だわね」と、妻君は手燭を吹き消して廊下へ置いた。
「奧さん貴下の演奏も濟んだんですか」
「貴下聞かなかつたの」と、妻君は指先で柱を叩きながら、雪のやうな腕を露はし[Pg 117]てゐる。薄光りに土耳古模樣の帶がぼんやり浮んでゐる。帶留の金具が光つてゐる。何んだつてあゝ何時までも若いんだらうと健次は思つた。
「さうですか、私がうと〳〵してる間に、何だかいゝ音がしたと思つた、まだ皆んなゐるんですか」
「子供連れは歸つたけれど、貴下の連中は皆ゐますよ、さあ被入しやいな、これから面白い話があるんだから」
「先生や箕浦の話も黴が生へてるからな」と、健次はひよろ〳〵と立上つた。緩んだ帶を不確な手で引締め前を搔合せて、戶口を出た。オヽデコロンの香ひが鼻を突いた。酒臭い息は妻君の顏を無遠慮に撫でる。薄暗い廊下を無言で緩く步いた。
この夏ピアノを洩れ聞きして心に妄想を描いた時が心に浮ぶ。小說の話に何か感じて妻君が「人間は獨身の間ですよ」と云つて、露氣のある目を向けたことを思ひ出す。お鶴や千代の前ですら、美に誇つてる樣子が思ひやられて傷々しくなる。と、[Pg 118]直ぐ博士の灰のやうな面が目につく。
彼れは自分が妻君の寵兒である、自分は勝利者であると思つた。で、幼稚な空想放縦な妄念が錯亂して湧き上つた。
しかし廊下傳ひは僅かに一分間、火花の如く消えては浮ぶ空想も僅かに一分間に過ぎなかつた。障子を開けると、殘肴を圍んで四人がばら〳〵に坐つてゐる。
「今日は何だか蒸暑いのね」と、妻君はぽーつと紅らんだ顏を顰めた。
「菅沼さんは何處へ雲がくれしてたのです、皆んな一つづゝ隱藝を出したのだから、貴下も一つやらなくちやならん、箕浦さんもバイヲリンを彈いたのですよ」と、久保田は健次の手を握つて「否だと云へばこの手を放さない」と、笑ひながら、グツと力を入れて握り締めた。
「ぢや何時までも握つて玉へ」
「さあお演んなさい、謹聽する」
[Pg 119]「何をやります、貴下の好きな决闘ですか」
「ハヽヽヽ决闘も面白いが、一つ都々一でも端唄でも」
「唄へるの菅沼さん、貴下は何時も無藝ね」と、妻君は添口した。
「何、唄位唄へなくはない」と、健次は自己流に「秋の夜」を胴間聲を張り上げて唄つて、巧くとも拙くとも何うでもよいと云ふ風だ。
「巧い感心々々」と、久保田は怒鳴つて兩手を亂打し「さあ祝杯を献じよう………それから、一つ僕の愛國の唄を聞かせます。謹聽し玉へ」と、胸を突出し、兩手を膝に置き、目を細くして土佐節を唄つた。「死ねや死ね〳〵五十年の命、何の惜かろ國のため」と、强い響きが締切つた座敷の中に擴がり、響きと共に、壁に映つた角張つた肩が動搖する。
唄ひ終ると太い息を吐いて、「どうだ緖君甘いでせう、こんな小さな部屋ぢや調和しないが、荒海の波の音を聞いて唄ふと、百萬の蒙古勢でも退治する氣になる。つ[Pg 120]まり愛國の精神を唄つたのです、なあにヴアイオリンやピヤノは駄目だ」と怒鳴り、ぐつたり首を垂れて、「我々靑年は太平洋の波の音を三味線にして、この唄を唄はにやならん、それに不服な奴がありや、僕が相手になつて决闘する」と云つて、又飛上るやうな聲で笑ひ、健次に凭れかゝつて、
「貴下は我黨の士だ、國家のために自愛して吳れ玉へ、僕は戰爭に行つて死ぬるんです、國家のために死ぬるんです、今二年日露戰爭が遲かつたら、僕は遼東の野に屍を曝すのだつたが、無念だ」と、叫んで、健次の肩から辷り落ちると、そのまゝ逞しい握拳を投出して、大の字なりに寢て、正體がなくなつた。
博士は最初からあまり口數を利かず、只座中の話を聞いて微笑々々してゐる。酒も二三杯は付合ひに飮んだが紅味は何處にも見えぬ。お鶴と千代とは遠慮して人形のやうに並んでゐる。箕浦は夢見る如くうつとりしてゐる。一時の騷ぎが大嵐の跡のやうに靜まり、只久保田の荒い鼻息に名殘を留めてゐる。
[Pg 121]暫くは互ひに打見守つたのみで、誰れも口を利かぬ。疲勞の色が人々の顏に現はれかけた。
「もう歸らうか」と、健次は箕浦を見て小い聲で云つた。
「あゝ、もう遲くなつたね」と、箕浦は金鎖の小さい時計を出して見た。
「まだ早いぢやありませんか」と、妻君は慌てゝ引留めて、お愛相に茶を注いで廻つた。健次は立ちかけて又坐つた。外の連中も容易に立ちさうでない。で、お鶴と千代とが久保田の寢姿を見て、何やら耳語いてる間、健次は膝を崩して煙草を吸ひながら、妻君の顏を見詰めた、妻君は淋しく笑つた。健次は何か云はんとしたが、口も心も疲れてしまつたのか、そのまゝ口を噤んだ。
一座はそれ〴〵に異つたことを思つて、化石のやうに坐つてゐる。健次は張詰めた氣が弛んで誰れかに縋りついて、自分の本音を吐いて泣いて見たくなつた。「世界に取殘された淋しい人が一人ある」と、自分が賴りなく厭になると、妻君の顏も同[Pg 122]じ思を現はしてるやうに見える。で、無意識に殘の酒を飮んで目を轉ずると、煙草の煙に卷かれた鴨居の額の海波が朧げに凄い色を見せ、床の間には菊の花片が何時の間にか散つてゐて、燈火の薄い光に漂うてゐる。戶外は暫らくは寂としてゐる。
「どうした、大變靜かだね」と、博士は沈默を破つて、力のない目を見張つた。
人々の異つた思ひもぱつと消えて、互ひに目と目で歸りを促がし、一同に挨拶して座敷を出た。健次も後から續いて行つた。妻君と博士とは玄關に立つて、若い男女の影を見送つてゐた。
戶外へ出ると、健次は四辻に立留まり、箕浦に向つて、
「君はこれから歸るんか、何時だらう」
「もう九時だよ、歸らなくちや仕方がないぢやないか」
「しかし僕あ物足らん、このまゝ歸つちや寢られりやしない」
「ぢや何處へ行く」
[Pg 123]「兎に角君はお鶴さんを送つて行くんだから此處で分れよう」
「そうか」と、箕浦は千代に目禮し、「ぢや菅沼君近日訪問するよ」と云つて、お鶴と並んで曲角を曲つた。
健次は箕浦を忘れお鶴を忘れ久保田を忘れ、桂田夫妻があの騷ぎの後で悄然差向ひでゐる樣をのみくつきり思ひ浮べ、夢のやうに薄暗く彼の家を遮つてる立樹を顧みてゐると、
「いいお月夜ね」と、千代は空を仰いで詠歎の聲を發して、「兄さん何を考へて?」
「おれは最少し散步して歸るから、お前は先きに歸れ」
「だつてお父さんは兄さんを待つて被入しやるんですよ、早く歸らにやいけないわ」
「今日に限つて親爺は何の用があるんだらう、病氣でも惡いんか」と、健次は今朝も朝寢をして父の病床を見舞はずして、社へ行つたことを思ひ出した。この二三日は父と染々話したことはない。
[Pg 124]「別に惡くもないの、今日はお晝から起てる位ですもの」
「さうか、ぢやおれに何の用があるか、お前知らないか」
「何ですか、よく知らないわ、…………だけど、今日お隣りの緖岡さんがお見舞ひに被入しやるとお父さんは何だか心細いことを話してたやうだわ、兄さんのことも云つて」
「おれのことを?」
「えゝ、……お父さんは一生苦勞したばかりで、ちつとも取得のない人間で終るんだけど、兄さんを立派に育て上げたのが大事業だと云つてね、自分は今死んでも殘り惜くはない、魂は子供の頭に傳はつてる、健次は男らしい大きな考へを持つてるから何時かはえらい學者とか政治家とかになると云つてたわ、」
「諸岡の隱居にそんなことを話したのか、親爺の十八番だ、話の種が盡きるとおれのことを持出す、聞く奴も聞く奴だね」
[Pg 125]「でも平生とは話振りが異つて、何だか憐れつぽさうだから、私可笑かつたわ、それでね、諸岡さんがお突合に兄さんを褒めるとさも悅しさうだつたわ、病氣になつてからは、馬の話は立消えになつて、私逹にまで、どうかすると、兄さんの話ばかりしたがるんだから變だわ」と云つて、間を置いて小聲で、「あんな風だとお父さんももう老耄ちやつたのね、今夜あたり屹度兄さんに遺言でもするんだわ」と云つて無邪氣に笑つた。
千代は止切れ〴〵に家庭の話をしかけて、「兄さんどうなさるの」「兄さんが何とか今の中に極りをつけなくちや」と、此頃に珍らしく大人びた口を利いたが、健次は只厭やな氣がして、あまり相手にしなかつた。
(十四)
それから二三日して、父は寢床を離れ、綿入の重ね着に襟卷で身を固め、トボ〳〵[Pg 126]と出勤するやうになつたが、家の者にも目につく程窶れて、以前の元氣は急に失せたやうだ。そして每晚健次の歸るまでは目を合はさず、絕えず氣に掛けて待つてる樣になり、たま〳〵顏を見ると、十年も別れた子にでも會つたかのやうに、一分間でも長く側に置きたがり、何とか話をしかける。それが我子の氣分を害ねぬやうに如何にも遠慮勝の態度である。健次には父の心根がよく見え透き、自分が家にゐなければ心元ながつてゐることを知つてゐるが、それが却て不快で溜らず、大抵は外してしまう。
次の日曜には朝餐が濟むと、父は健次の意を迎へてか、彼れが雜誌に書いた「社會と文學」と題する間に合せの平凡な議論に對し、馬鹿褒めをした上、自說をも吐きかけたので、健次は苦笑した。「人に褒められたくて書くやうな頓間な眞似をするものか、幇間ぢやあるまいし」と、自分が詮方なく爲てることが、何だか他人から褒めて貰ひたさに勤めてると思はれるのが不愉快だ。自分は名譽の接待に與りたく[Pg 127]はない。
で、彼は父の前をそこ〳〵に逃げ出した。足は行場所に迷つて、遂に麹町に向ふ。織田の住んでる町まで來て、訪はうか訪ふまいかと躊躇してゐると、前の三階建の二階の窓には、色の黑い耳に輪を嵌めた女と、靑い腹掛をした辮髮の男とが頭を並べて、聲高に分らぬ言葉で饒舌てゐる。路次を隔てゝ隣の洋服店から、脊の高い色の白い毛皮をぐる〳〵卷つけた西洋婦人が犬を連れて出て來た。二人の支那人はそれを見ては面白さうに笑つた。その邊に散ばつてた子供等は婦人の前に集まつた。婦人は口笛を吹いたり、何か早口に云つて、犬を綾してゐたが、やがて店から肥滿の男が出て來ると、一緖に勇ましく去つた。支那人も引込んでしまう。健次は無心に見てゐたが、町が元のやうに淋しくつて、埃を含んだ風が顏に吹きつけると、身震ひして路次を入つた。すると向うから織田が大きな身體を縮めて、例の壞手でノソリ〳〵やつて來て、
[Pg 128]「大層寒さうな顏をしてるね」と、微笑々々顏で云ふ。
「何處へ行くんだい」
「一寸買物に、今箕浦が來てるから御馳走しようと思つて…………君もいゝとこへ來た、まあ上つてゐ玉へ、直ぐ歸つて來る」
健次は何時ものやうに緣側から上つた。座敷の眞中に箕浦が坐つてゐて、瀬戶物の火鉢には藁灰の中に、どつさり火が盛つてある。この前來た時よりも部屋の樣子が明るさうだ、織田の母が茶を持つて來て、手短かに挨拶をして引込だきり、妻君の顏も見えねば病父の聲もしない。
「靜かだね」と、健次は平生よりは低い聲をして、「君は此頃此家へよく來るさうだね、織田と話が合ふかい」と、箕浦の向うに腰を据ゑて、そのテカ〳〵光つてる顏を見た。
「いや、滅多に來んのだが、今日は織田が端書で僕を呼びつけたのだ」
[Pg 129]「さうか、織田が君に會ひたがるのは不思議だね、何の用事だらう」
「別に用事ていふ程でもない」と、箕浦は澄ましてゐる。
「織田も多少得意になつてるだらう」
「どうだか、餘程忙しそうだよ」
「しかし今日は御馳走するちうんだから珍らしい、」
「そうだ」と、箕浦の返事の空々しいのが目につく。
同じく交際の深い友人であれど、健次は織田に對すると、常に弱者を庇うと云ふやうな態度を執り、箕浦に對すると、何となく壓えつけるやうな態度を執つてゐる。そして箕浦は彼れの態度を左程厭がりもせず、寧ろ自から一步讓つて滿足してゐる。自分の意見の批評も先づ彼れに求め、いろ〳〵の感想もその前で吐露する。しかし今日は多く語らぬ。何となく隔てを置いて、何時ものやうに詩的の話もせねば、人生觀染みたことも云はぬ。
[Pg 130]健次も奧の病人に憚つて、元氣のいゝ口も利かず、暫らく默つてゐた。去年のまゝで薄黑くなつてる蚊帳の釣手が、隙間洩る風に緩く動いてゐる。箕浦の呼吸の音もよく聞える。で、互ひに睨み合つてると、次第に緣もない他人臭い色が相手の顏に讀める。
「此奴どうかしてるわい」と、健次は冷笑を洩して、皮肉の一つも云つてやらうかと思ふてると、溝板に重い足音がして、やがて織田は歸つて來た。
「馬鹿に畏まつてるね、どうしたい」と、大人振つた音聲で云つて、目尻を下げてジロ〴〵二人の顏を見た。織田はこの前とは打つて變はり、心に餘裕が出來たのか、後に病人のゐるのも忘れてるやうだ。平生なら箕浦が喋舌るのを默聽するのだが、今日は自分から話題を持出して氣㷔も吐く。
「だが、仕事は勤まるかい」と、健次は話半ばに聞くと、
「勤まるとも、それに彼店の主人が僕の家の事情を聞いて、同情して吳れてるしね」[Pg 131]と、ます〳〵得意で、仕事の話まで持出して、「僕ももう四五年したら、基礎が堅くなるよ、目算もちやんと立つてる」
「生意氣な口を利きやがる」と、健次は腹で思つた。
妻君は大きな腹をして、靑い顔に髮の毛を亂したまゝ、刺身に麥酒を運んで來た。健次はこの寒いのにと思つたが、一二杯煽つて、低い聲で、
「君、お鶴さんはゐないか」
「あゝ朝からゐない」
「妹でもゐないと、君の家は萎びてるね、」
「なあに、今に僕の後繼者が生れるから、大に光彩を放つさ、……君も早く後繼者を作り玉へ、空論を吐かないで、」
「四五日會はん間に大層先輩になつたね、箕浦君も敎訓を聞きに來るんかね、この人に」
[Pg 132]「まあ、さうだ」と、箕浦は麥酒で濡れた手をハンケチで拭ひながら、「君と話すこともあるんだが」と言淀んだ。
「何を、音樂會の事か、」
「いや、それ計りぢやない」
「ぢや話し玉へ」
「まあゆつくりでもいゝ」
「茲でいゝぢやないか」
「歸り途に話さう」
「因循だね」と、健次はもう微醉に目を染めて、思はず聲の高くなるに氣づいて一寸後を顧み、「僕はもう直ぐに歸るんだから、今話し玉へ、どうせ君はお鶴さんの歸るまでゐるんだらうから」と小聲で云つて笑つた。
箕浦は「そんなこと」と云つたばかりで默つてしまつた。織田は無神經な顏で絕え[Pg 133]ず微笑してゐたが、「今日は僕が話があつて來て貰つたんだ」
「例の事でかい」
「うん」
「でどう極つた、君の重荷はどうなつた」
「君は僕の說を用ゐんから仕方がないさ、僕も考へ直さなくちや」
「さうか、君も何時の間にか、箕浦君と意氣投合するやうになつたんだね」
と云つたが、健次は腹の中で、「織田の奴、とうとう箕浦に妹でも賣付けるんだらう」と思ふと、不思議に氣がむしやくしやして、麥酒を二三杯グイ呑みにして、急に立上り「さあ歸らう」と、二人が引留める間もなく緣側を下りた。
「氣まぐれな男だなあ、何を考へ出したのだらう」と、織田は壞手のまゝ暫く閾の上に立つてゐた。
健次の足は行場所に迷つた末、遂に千駄木へ向つた。
[Pg 135]
玉突屋
「二本歸り三つ!」と、ボーイは蟲の喰つた出つ齒を出して大聲で叫んだ。彼れは薄い座蒲團の上に几帳面に坐つて、兩方の袖を搔き合せてゐる。年齡は十五六で、顏は靑くて脹れて、髮の毛は薄い。
背廣を着たでつぷり肥つた男は、臺にすり寄つて身を屈め、鳥差しが鳥を狙ふやうな態度で、キユーを突出した。
「三つ!」と、ボーイは袖口から細い棒を出して、ゲーム盤を動かし、橫を向いて欠伸をした。
向うの一臺は突手もなく、四つの玉が佗しげに片隅に抱き合つてゐて、瓦斯の光は鈍いが、手前の一臺は明るい光の下に、紅白の玉が追つ追れつ縱橫無盡にころがつてゐる、ストーブを後にキユーを逆に突いて、帶を緩くだらしなくしたまゝ立つ[Pg 136]てる角帽の靑年は「又やられさうだな」と呟やいて、相手の突振を見てゐたが、急に後を顧みて、「中原、後で君と最一度やらう」と力んで云つた。柱にもたれてワツフルを抓んでゐた中原は、時計を見て、
「もう十二時ぢやないか、明日にしやう」と落付いた聲で云ふ。
「いや、明日は芝へ行つて、あの話を定めて來なくちやならん」
「なに、芝の方は急がなくてもいゝさ」
「だつて早く定めなければ氣になつてならん、相手が愚圖だから」
「急勝ちだね」と、中原はゲーム盤を見て、
「栗山さん、今日は全勝ですね」
「へゝゝゝ」と、栗山はキユーを扱いてゐたが、コツツと音がして、手玉は外れたので、「こりやどうした」と、禿頭をつるりと撫でゝ、厭な笑ひをして、ストーブの側へ來た。
[Pg 137]「さあ一キユーで取り切るか」と、角帽は勢よく立上り、チヨークをギシ〳〵付けながら玉臺を見て、チエツと舌打して「厭な玉だね」と首を二三度捻り、「かう行つてかう來るか」と臺の上に乗り上つて、邪慳にキユーを出した。兵子帶がだらりと垂れる。
「二つ」と、氣拔けのした聲でボーイが呼ぶ。
「おい五だぜ、確かり見とれ、ゲーム取りならゲーム取りらしくするんだぜ」と橫目でぢろりとボーイを見た。
「五つ」とボーイは數へ直して、目をぱつちり開けたが、次第に上目葢が垂れて來る。生欠伸が喉を突いて來るのを漸く嚙み殺したが、淚が目に浮ぶ。
角帽は眉を顰め、口を捻り、首を動かし、襟を寛くボタンの取れたシヤツの廣く出てるのも關はず、熱心に突いてゐる。栗山は葉卷の先を爪でつゝきながら、「玉は今時分からよく突ける、不思議なものだ、世間がしんとして來るとキユーも冴えて來[Pg 138]る」と、ストーブに顏がほてつてゐる。
「ぢや、今夜は徹夜して突きますか」と、角帽はクシヨンの方向を目で計つてゐる。ボーイは氣遣はしさうに栗山の顏を見てゐたが栗山は「へゝゝゝ、徹夜も面白いな、明日は日曜だし」と、惡くすると徹夜案が成立しさうなので、幽かに溜息をついた。で、坐り直して、足の痺れを撫り、ぺこ〳〵の腹に力を入れ、「二つ」「三つ」と付元氣で叫んだが、頭は次第に下つてぽうつとする、と、身體が地べたからする〳〵と引上げられるやうな氣になり、そのまゝ遠い所へ持つて行かれさうになつたが、ガチヤツと音がしたので目を細く開けて、「三つ」と夢心地で叫んだ。十二時が打つた。
栗山は火の熱で汗ばんだ手に白粉を振りかけ、立變つてキユーを執り、「早い者だ、もう十二時だ、家に居りや、とても今時分まで起きてらりやしない」
「中原、昨夜の今時分はどうだい」と、角帽は意味ありげににやり〳〵と笑つてゐる。
[Pg 139]「フヽン」と、中原はコークスを指先で抓んで、ストーブへ投げ込み、「お蔭で今日は二時頃まで寢てしまつた」
「起きては玉を突き、飮んぢや寢てりや、それで春は來るんだが、どうもかう玉突屋にばかり日參してゝも困るよ」
「いゝぢやないか、學問で喰へなきやキユーボーイになるさ、その方が洒落てるぜ、フツ〳〵〳〵」
「それも呑氣でいゝね、しかし何時までもこんなことをして遊んでもゐられまいよ」
「良心が咎めるか、君やそんな事をちよい〳〵考へ出すから酒も玉も上逹しないんだよ、」
「さうだね、少くとも君を對で負かす程にならなくちや癪に觸らあ」と、ワツフルの殘をむしや〳〵平らげた。
「勝負有」とボーイは三人の顏を順々に見たが、北風が玻璃窓に吹つけるので、音[Pg 140]を聞いたゞけで首をすくめて兩手を前垂の下へ入れて脊を丸くした。
「さあ、も一度」と、角帽は目を光らせて、玉を並べる。
ボーイは恨めしげな顏付をして、「栗山さん、も一ゲーム如何です」と哀れな聲で云つた。
「もう遲いから止さうか」と、栗山は迷つてゐる。
「一時前か」と、ボーイは獨語のやうに云つたが、角帽は帶を締め直して威勢よく、「なあに、まだ十二時を十五分過ぎたばかりさ、十分もあればゲームになりますよ」と促すので、栗山は時計を見て、「今二十分だね、ぢや、やるかな」とキユーを執つて、「どうです、十位下げますかね」
「なあに大丈夫、今度負けたら玉はお止めだ」
「いや君の止める〳〵も當にやならんよ」と、中原は腰を掛けたまゝ足拍子を取つてゐる。
[Pg 141]ボーイはゲーム盤を直して、「二つ」「三つ」「五つ」と數へ出したが、少し當りが途切れると、前に屈みさうになる。眠りをまぎらしたくも、軍歌も歌へず、足も動かせず、手も動かぬ。で、詮方なしに齒を喰ひしばり目を見詰め心を凝らしてゐると、かつとした目眩い光が前に廣がつて、靑い臺と白い玉と紅い玉とが、浪の上にでも漂ふてゐるかの如く見える。しかし無意識に「二つ」「三つ」と叫んでゐたが、やがて口も目も緩んで、心がとろ〳〵になり、自分の故鄉で弟を連れて繍眼兒捕りに行つてる氣になつた。枝の上に綠の羽を重ね合つて、一所にピー〳〵鳴いてゐる。で、黐竿を持つて近寄らうとしたが、身體が縛られてるやうで近づけぬ。矢鱈に藻搔いてると、ズドンと音がして、鳥は飛んでしまつた。
「おい吉公」と角帽は怒鳴つて、「居睡りなんかしないでゲームを取れ、今までよく數へなかつたんだらう、聲がしなかつた」
「いえ、數へてゐたんです」と、出鱈目に數を取つて、「十八ゲーム」
[Pg 142]「ふゝん、いよ〳〵取切か」と、角帽は微笑々々して臺を廻つてゐる。
「さあ、それが濟んだら、おれが最後の一擊を與へて歸ることにしよう、もうそろそろ眠くなつた」と、中原は欠伸をした。
夜番の拍子木が地の底からのやうに幽かに聞える。
ボーイは百年も千年も「二つ」「三つ」と繰返し〳〵叫ばねば、打倒れて熟眠は出來ぬ運を脊負てるやうに感じて、淚聲で「當りゲーム」
[Pg 143]
六號記事
私は例の如く膳の側に新聞を引寄せ、朝餐を食べながら目を通してゐたが、ふと三面の隅に津坂金一(木版業)が二階から落ちて即死したとある塵屑扱ひの六號記事の一つを讀んで、久しく忘れてゐたこの男の事を思ひ出し、急に氣分が欝いで、肝心な食事を不味くしてしまつた。私のやうな淚脆い人間は、知人の死去や病氣の報を聞いた丈で、直ぐに世の中を心細く手賴りなく感ずるのだが、左程深い交際をしたのでもなく、只偶然知り合ひになり、二三カ月の間時々往來して、再び緣のない道路の人となつた津坂の死は、却て懇意な友人の死よりも身に染みて、人はかくて逝くかとの感に打たれる。彼れのデツプリ肥つた赭顏も、多少上方訛の殘れるゆつたりした語調も、私の目の奧耳の中に深く止まつてゐて、今もはつきりと思ひ浮べられるが、それは最早死人の影に過ぎぬのだ。
[Pg 144]私が初めて津坂に會つたのは、去年の春の初め。まだ尾張町の淸元の師匠の二階を借りて、先きの見えぬ暮しをしてゐた時である。師匠は藝者上りの意氣な女。もう四十過ぎで顏に小皺も見えてゐるが、口先が甘くて、情人の取持ぐらゐ何時でもして吳れさうなので、近所の狼連が頻りに出入してゐた。津坂もその一人で、目を細くして、柄にない聲を絞り出し、「よい初夢を三つ蒲團」だの「辨天さんと添伏しの」だのと唸つてるのを、私は屡々洩聞きをしてゐた。で、この男が木版屋の親方で下職を二三人使つて氣樂に暮してゐること、酒の好きなこと、釣魚の好きなことなど、師匠から噂に聞いてゐたが、私の目には外の連中と異つたことなく、挨拶一つするでもなかつた。然るに彼れは、或朝無斷で二階へ上つて來て、階子段の側にどつかり坐り、もう酒氣を帶びた顏に微笑を浮べ、「失禮ですが、一寸お願ひがごあして」といふ。
「何ですか」と、私が振向くと、
[Pg 145]「實はね、今師匠に聞くと、貴下にお願ひしたらと申すんで、失禮ですが突然に伺ひました」
「で、用事は何です」
「誠に御面倒で相濟みませんが、實は私の悴が亜米利加へ參つてるのでね、一つ其奴つに手紙を送りたいのでごあすが、上書を貴下に一筆書いて頂きたいと思ひまして」と、重苦しい調子で云ふ。
「承知しました、今直ぐ書きませう」と、私は津坂から手紙を受取り、封筒にペンで桑港何街と書いて、
「貴下の子息さんは何をしに彼地へ行つてるのです、矢張木版業ですか」
「なあに、只何てことなしに參つたんですが、此頃は商店へ入つて中々お金が取れるさうです、日本で版木いぢりしてるよりや結構でさあ」
「さうでせうね、貴下の商賣は隨分氣の詰まる仕事でせう」
[Pg 146]「えゝ、辛氣臭い面倒な仕事ですよ、だから私共の仲間は皆酒を呑むか、何か道樂をしない奴はごあせん、全く根が盡きますからね」
「しかし貴下は道樂が多過ぎるぢやありませんか、釣魚もお好きださうだし、これも甘いし」と、私は自分の喉を指した。
「へツ〳〵〳〵」と、津坂はツル〳〵した頰を撫でながら「しかしこれで手間を怠けて日限を遲くれるてことはごあせん、仕事は仕事、道樂は道樂ですからな」と、彼れは重たい身體を持上げ、幾度も謝意を述べ、「是非遊びに被入やい、私の家は直ぐこの裏ですから、何れその中沙魚でもお禮に持つて參りませう」と、階下へ下りたが、門口を出ると何か小聲で唄つてるやうであつた。
それから四五日後、私は或友人から甲州土產に貰つた水晶の印材を捜し出し、津坂に彫らせやうと思つて訪ねて行くと、津坂は筒袖を着て仕事をしてゐる。低い机の上に凸鏡を置き、細い小刀で微細い繪を彫つてゐたが、私の顏を見ると、「やあよ[Pg 147]く入らしつた」と、急に笑顏を造つて振向き、黑い眼鏡を外して坐り直した。
家は廣くはないが日當りがよく、主人が潔癖と見えて諸道具はキチンと整頓し、塵一本もないやうに拭掃除が行屆いてゐる。如何にも居心地のよい家だ。片隅には弟子が二人、默つて一心に仕事をし、次の室には妻君と女の子の笑ひ聲がしてゐる。成程唸る時は唸り、飮む時は飮んでも、仕事には身を入れると云つたが、この男腹に締りのある、しつかり者であらう。この仕事場を見たゞけでも、だらしない趣は少しも見えず、版木は几帳面に積重ねられ、鋸も錐も取散らされてはゐない。机の側の柱には鯉の形の花瓶を釣るし、一莖の水仙を挿してゐる。
「今日はお忙しさうですね、」と、私は彫刻を賴んだ後で云つた。
「何、さうでもごあせん、此頃は木版も流行なくなつて、暇で困つてる位でさあ、まあ、ゆつくり話して入らつしやい、貴下にお尋ねしたいこともあるんですよ」と津坂は充血した目をこすり〳〵、稽古に來る時とは打つて變つて眞面目な顏で云ふ。
[Pg 148]「ぢや、も少し遊んで行きますから、私に遠慮なく仕事をして下さい、話は仕事をしてゝも出來る」
「いや、私やね、道具を持つと、ちやんと彫り上げるまで口一つ利けん位でしたよ、こんなやくざな腕でも、さあ仕事だとなると、魂が凝るんですね、所が此頃は變ですよ、仕事に取かゝると、平生思ひもつかんことがごた〴〵と考へられます、もう二十年もこの仕事をやつてゝ、こんな事は一度もなかつたのですがね、どうも不思議だ」と考へ込む。
「腦が惡いんぢやないですか、あまり酒を飮み過ぎて」
「なあに、私の身體は酒位で弱るやうなのぢやない」
と云つて、例の重苦しい聲で笑ふ。それから前夜の勸工場の火事の面白かつたことを手眞似付きで話し、又市區改正で通りの鞄屋も立退かねばならんので、この近所の家屋敷を買つて新築するさうだから、自分の家も高く賣付けてやるなどゝ氣燄を[Pg 149]吐いた。その態度、話振りが少しも隔意なく、初めて訪問した私に對しても、さながら長い間の知己のやうであるので、私は悅しくなり、思はず長座をした。そして彼れの身の上を聞くと、大阪生れで、少い時から酒屋に奉公してゐたが、身體が肥つてる爲か、飛廻るのが厭で、遂にこの商賣を習ふことゝなつたさうだ。
「さやう、初めて三文判を彫り出したのが、二十の歲ですから、丁度二十五年これで御飯を頂いてます、しかし木版なんか、もう駄目ですな、何かうんと儲かる確かな商賣はごあせんか、先日も、或方が、これから寫眞版なんかゞ進步すると、木版のやうな不完全な者は無なつてしまふと仰有るので、心細くなりましたよ、現に私のお受合してる新聞や雜誌の仕事が、大分寫眞版に踏だくられてしまふんですからね、本當に心細うごあすよ、私が家内を貰つて一本立になつた時、親方が貴樣はそれ丈腕が利けば、大丈夫一生飯櫃に放れつこはないつて受合つて吳れたんですが、どうもね、世が變りや仕方がごあせんや、」と云つて下職を顧み、「だから彼奴等[Pg 150]にも云つて聞かすんです、こんな手賴りにならん稼業は若い間に早く見限つて、何か氣の利いた確かな仕事をしろつてね」と、これが淸元を唸つてる男とは思へぬ程生眞面目で、腹の底から感じてゐるやうだ。下職の一人は大きな眼鏡越でこつそり此方を見て、口の邊で笑つてゐる。私も親方の愚痴を寧ろ可笑しく感じたが、多少慰めてやる氣で、「でも木版は日本特有の美術だから、廢れる氣遣ひはないでせう、西洋でも此頃は日本の木版には感心してるんだから」
「さうですかな」と、尙多少不安心らしい。
私は仕事の邪魔を恐れて、强いて引留められるのを辭して歸りかけると、津坂は跛足引くやうにして、送つて來て、「近々に釣魚に行つてどつさり釣つて來ますから、その時やお宅へ押かけて一盃やりませう」と約束した。
その後四五日心待ちにしてゐた甲斐もなく、彼れは更に顏を見せず、稽古にも來ぬらしい。無聊で友懷かしい私は、遂に待切れずして、或晚此方から訪ねて見たが、[Pg 151]生憎彼れが無斷で何處かへ出て行つた後で、妻君は「お宅へお稽古にでも行つたことゝ思つてゐました」と云つて、氣遣つてる樣子。
私はあんまり懇意でもない家へ、度々遊びに行くのを變だと思つて、それ切り足を向けず、殆んど忘れかけた頃、師匠が私に向つて、
「木版屋の親方は腦病とか何とかで、通りで倒れたんですつてね」と平氣で云ふ。私は吃驚して「ぢや腦充血ですか、酒が過ぎたんだらう、そして生命はあつたんですね」と問ふと、
「何でもね、くら〳〵つと眩暈がして轉んだんださうですよ、それでも家の近くだつたから助かつたんですわ、まだ少しは性根があつたのか、無我夢中で四つ這ひをして、やつとこさで家の閾側まで歸れたのですつてね、隨分可笑かつたでせうよ、あの肥つた男が眞晝中に大通りを匍つて步いたと云ふんですから」と、師匠は笑ひ出した。
[Pg 152]「それでも、もうよくなつたんですか」
「えゝ、根があの通り丈夫なんですもの」
と、話はこれだけで濟んだ。で、私は一寸門口まで見舞ひに行つたが、遠慮して病人には遇はなかつた。
それから二十日あまり、窓へ差込む春の日もめつきり温かくなり、一冬着通しの襟垢の染みついた下着を脫ぎ、身の輕くのび〳〵とした時分、思ひがけなく津坂が入つて來た。相變らず肥つてゐるし、顏も赭いが、前ほど勢がなく、唇が黑く朽ちてゐる。
「病氣はどうです」と、私は欄干に干してる座蒲團を取つて津坂に敷かせた。
「へゝゝゝ、どうも弱つちまひました」と、彼れは口を利くのが、如何にも怠るさうだ。
「一體何處が惡いんです」
[Pg 153]「何處と云つて餘程變ですよ、醫者は鼻が病氣の元だらうつて、切開して吳れたんですが、矢張りよくなりません、何でもかう頭の端の方が風に吹き飛ばされさうになるんでね、一日氣になります」と左の手で頭を撫でまはす。
「なあに養生してりや癒るさ、酒を止めて釣魚をしたり唄を歌つて遊んでたらいゝでせう」
「醫者は寢酒の少し位はいゝつて云んですが、何だか恐ろしくて、盃を見ると身震ひがして一滴も飮む氣になりません、どうも妙な者です、飮み過ぎや食ひ過ぎで身體に障るなんて、ついぞ思つたことはなかつたんですがね、二十日も酒を絕つたのは今度が初めですよ、それで氣晴らしに釣魚にでも行けと勸められるんで、二三日前に小僧と一緖に行きましたが、廣い海に蒼い波が動いてるのを見ると、自分もその中へ吸ひ込まれさうで恐くてなりません」
「ひどく臆病になつたんですね」と、私は大きな男の悄然た樣子を憫然に感じた。
[Pg 154]「皆んながさう申して笑ひます、何處か身體の楔が弛んだんですかね、それで夜も碌々寢つかれませんから、色んなことを考へますが、つまり今の稼業が惡いんでさあ、坐つてゝ細かしい仕事を二十年も三十年も續けてたから、こんな病氣に取つかれたんだ、つまり木版に取殺されたのです、それもどつさり子供に殘す程の身代でも出來ることか、商賣は衰微して、この先糊口さへ六ケ敷いんですからね、昨日も氣晴しに銀座から丸の内の方へ步いて見ましたが、世間には木版稼業よりやいゝ商賣が幾つもころがつてる、何故自分は酒屋奉公を止めた時、呉服屋の丁稚にでもならなかつたのだらう、何故銀行の給仕にでもならなかつたのだらう、さうすれば何時までも五體が丈夫で、仕事も衰微すりやしないのに、よくも〳〵人間の撰り屑の木版屋なんかになつたことかと、つく〴〵厭になりました」
「そんなに欝がなくてもいゝでせう、酒が飮めなけりや、唄でも唸つて陽氣にやるさ、腦病位直つてしまふ」
[Pg 155]「唸つても五體に惡かあないでせうか」
「惡いものか、却つて藥になりますよ」
「さうですかね、どうも惡いやうな氣がしてならん」
「そんな事はないさ、第一好きな者を何もかも封じてしまつちや生甲斐がないでせう」
「さうも思ふんですが、どうも恐うごあしてね、口に唾が出ても盃を執る氣になれません」と、津坂はだるく目葢を垂れ手を拱いてゐたが、暫くして頭を持上げ、
「御面倒ですが、一つ亜米利加の忰にやる手紙を書いて頂けますまいか、私が書くといゝんですが、手が震へて書けませんから」
「よろしい、今でも書いて上げますが、何と云つてやるんです、病氣のことですか」
「え、病氣も知らせてやりたいんですが、忰が何か仕事を定める時にや、先きの確かな何時までも繁盛するやうな仕事を撰べと、御面倒ですが一筆書添て下さいまし」
[Pg 156]「それで貴下が御病氣でも心配するにや及ばん、歸るにも及ばんと書いてやるんですね」
「左樣、どうせ彼れが私の後繼者だから、私が死ねば歸らなくちやなりませんが」と云つて、急に厭氣が差したか、眉を顰めて首を振り、「なにまだ大丈夫ですよ、だから心配するな、しつかり稼げとお書き下さい」
で、私は洋紙へペンで書きかけると、津坂は少し伸上つて、目をペン先に配り、取留めなく用向きを述べ立てる。
やがて認め終り、吸取紙で墨汁の潤みを乾かせて、私は念のために讀んで聞かせた。
「拜啓、當地は春暖の好時節、櫻も咲きかけ申し候、母も無事妹も無事御安心相成るべく、父は先月來腦病にて仕事も休み居り候が、ほんの輕症なれば、別に御配慮にも及び申さず候、扨て先日御申越の事件……」云々と、宛名まで讀み終り、
「これでいゝんですか」と聞いた。
[Pg 157]「えゝ結構です、どうも有難う御座います」
と、津坂は頭を二三度下げたが、私が手紙を封筒に入れかけるのを見て、さも言憎さうに、「甚だ御面倒で申兼ねますが、私の病氣のことを、もつと、何とか色艶をつけて書いて頂けますまいか」と云ふ。
私は不思議に思つて、「ぢやどう書くんです、病氣が重いと云つてやるんですか」
「いえ、重いでもありませんが、忰がこの手紙を讀めば、親爺は氣の毒だ可愛さうだと、淚の一雫位は落すやうに書いて頂きたいと思ひましてね、」
「だつて、それぢや御子息が心配なさるでせう」
「それもさうですね、」と少し考へて、「しかし、私の手賴りにするのは彼ればかりで、此頃は每晚のやうに彼れを夢に見ます、だから私が酒も飮まずに每日何か案じて暮してる樣子を、よく腑に落ちるやうに知らせてやつて彼れが私の事を夢にでも見るやうにさせたいんです、さうでもしないと、世の中が心細くつてなりません」
[Pg 158]「隨分六ケ敷御註文だが、力一杯工夫して見ませう」
と、私は三十分間も考へ、三四度も書直して、哀れつぽい文句を二つ三つ書き加へ、認め終つて讀んで聞すと、津坂は膝に手を置いて耳を傾け、感に打たれてか、どんよりした目に淚をさへ浮べた。
「結構です〳〵」と、彼れは胸の蟠が融けた如く感じたらしく、手紙を持つて勇ましく二階を下りた。
それから五六日後、津坂は私にかの水晶の印を送り屆けたが、それと共に、多年大切にした自分の見臺を、師匠に進呈したさうである。私は間もなく轉宅したから、その後一度も津坂に遇はぬ。手紙の遣取りもせぬ。只遺物の印は今も座右にあり、その面影は今も私の目に殘つてゐる。
[Pg 159]
彼れの一日
彼れ――黑塚白雨――は九時に目を醒ました。下女の紙箒の音が部屋の兩隣で騷々しく聞える。電車の音がギイ〳〵耳に響く。彼れは今までうつら〳〵淺い夢を見てゐたのだ――草山が赤い鉢卷して逆立して踊つてる。喇叭や太皷で囃し立てる。自分も手拭を頭に載せ褄を取つて踊らうとする。場所は何でも七八年前に住んでた西方寺の一室らしい――彼れはその夢を考へて厭やな氣がした。社には素面でカツポレを踊る人があるが、自分は何かの拍子で、一度琉球節を唄つたため、今思ひ出しても冷汗が出る。何だつてあんな夢を見たことか……
彼れは身體を伸して新聞を取り、又寢床へずり込んで、それを開いた。朝日が障子の破目を通つて、新聞に圓く映り、鮮かに光つた。彼れは一通り讀んで了うと、むく〳〵と起き、小走りで洗面場へ行つた。五分間計り冷水摩擦に餘念がない。これ[Pg 160]は十年も前に身心鍛鍊のために初めたので、今はその必要を感じてるのではないが、只習慣で止められぬのだ。この寒いのに醉興なと、人も云へば自分にも思ふ。しかし苦學時代の名殘がまだ消ゑてしまはぬ。
彼れは朝食を濟ますと、元町の停留場から電車に乗つた。
車掌が回數券に鋏を入れるまでは氣が落付かなんだが、お茶の水を渡る時、その車中の役目が濟み一安心した。そして目を閉じ手を拱いた。彼れはかねて往復の乗車時間を利用して獨逸語を硏究するつもりで、今日は懷中にヂヤーマンコースを潜ませてゐるが、容易に取出さうともしない。數寄屋橋まで二十分間、此頃の例により取留めもない空想に耽つた。空想と云つても翠帳紅閨が浮んで來るのでもなく、天外無窮の境に思ひ及ぶのでもなく、彼れの顏の乾涸びてゐる如く、その空想も乾涸びてゐる。
朝讀んだ社の新聞の記事が斷片的に頭に浮び、空想がそれに附随して飛び廻る――。[Pg 161]自分が力を籠めて書いた或派の議員買收の記事が悉く抹殺され、今朝の新聞には一行も出てゐない。そして下らない記事はどつさり出てゐる。電車會社の重役の手前勝手の意見が、さも尤もらしく長々と出てゐる。あれを書いたのは佐々良に違ひない。彼奴何か魂膽があつて書いたのだらう。怪しからん奴だ。常に新聞を自分の利益機關のやうに用ひる。どう思つても怪しからん。それで洒蛙々々として更に心にも顏にも疚しい風はない。……紙面の賑ひと云ふ大憲法の下には、針程のことも仰山に吹聽して、人に迷惑を掛け、讀者に虛僞を傳へ、やうやく下宿料に足るか足らぬの報酬を貰ふ。情ない商賣、怪しからん職業だ。たま〳〵正義と思つて破邪の筆を揮ふと抹殺される――
彼れの空想は一轉して今日の晝飯を考へた。蕎麥、五目鮨、餡パンが早速頭に浮ぶ。どれもどれも度々の事で鼻についてる。偶にや變つた者が慾しい。――遂に「大新の天麩羅」と腹の蟲が叫んで、彼れは我知らず袂から蟇口を出して見た。銀貨が六[Pg 162]十錢ばかりある。入社以來三年月給は居据りで、天ドンは十三錢から十八錢になつた。どうかしなくちやならん正義呼はりもないもんだ。
「曲りますから御注意を」と、車掌が大聲で機械的に云つた。電車が激しく動搖する。立つてる乗客が靴の踵で彼れの爪先を踏んだ。彼れは角立つた目で恨めしさうに相手の後姿を見上げた。電車が落付くと、彼れは又目を閉ぢる。
夢に踊つてた草山の現實の顏が憎々しく浮上つて來る。――あの野郞、社長にお謟かつて、狡いことをしてやがる。俳優の投票、小說の懸賞募集、皆彼奴の差金だ。體よく社長を說いて、社の發展の爲だと、お爲ごかしに自身の勢力擴張をやつてる。出勤時間だつて少とも守つてゐない。朝は遲く出て晚は早く歸る。よく注意して見てるに、おれの三分の一の仕事さへして居らん。それに世間からは、やれ何新聞の敏腕家だの、新進小說家で御座るの、劇通で候のと、出放題な稱賛をしてゐる。何だい彼れが、碌そつぽに語學も出來ねば、文章だつておれの目から見ると些とも[Pg 163]甘くはない。腕前と云へば新聞を甘く利用しては本屋の提灯持をして、そのお禮に拙い小說を賣込む位だ。何でも役者からの付屆もありや、御馳走にもなつてるらしい。昨夜だつて大坂役者に百尺へ招待されたさうだ………おれは新聞へ入つてから、役德と云やあ、あれと此れと、招待も三度しきや受けてやしない――
空想はふら〳〵と一轉する。「今日は何を書かう」、輪轉機すら一臺もない小新聞だから、彼れの如き政治智識の乏しい者も、一週に一度は論說を割付けられてあるので、今日がその當番だ。彼れはその問題を捜して、增稅案、移民會社取締、對朝鮮政策、どれも六ケ敷い。國民の驕奢を攻擊するか、それとも惡小說の流行を罵倒するか、どちらが手易いだらうか、小說論にしても、どう論じたら早く書け手數が掛らないだらう………と考へたが、別に妙案の纏まりもせず、又强いて纏めやうともせぬ間、
「數寄屋橋」
彼れは詮方なく空想を拂つて電車を下りた。ノソ〳〵と二三町步いて社へ行くと、[Pg 164]下駄箱の側で草山に出くはした。
「やあ、今日は馬鹿に早いぢやないか」と、草山の方から聲を掛ける。黑塚は「それや此方の言分だ」と、忌々しく思つたが、、口では尋常に、
「君こそ早いぢやないか、僕は何時も今時分に來る」
「さうか、女房のない者あ異つたものだね」と、草山は晴々した聲で云つて二階へ上つた。黑塚は後から付いて行く。
草山は黑塚よりも三つ歲上だが、學校も同じくクラスも同じく、共に苦學生で、半年ばかりは一緖に本鄉のお寺で自炊したこともある。黑塚の入社も草山の周旋によるのだ。しかし今は二人の生活はその着物の結城紬と瓦斯織と異つてる位異つてゐる。一人は既に一家を構へ女房もあり子の二人もあり、多少の借金もある。一人は自炊から下宿屋に移つた位で、さしたる變化もない。入社と同時に今の下宿屋に轉じたので、もう彼此四年同じ部屋に居る。せめて宿でも變つたらばと思つてゐるが、[Pg 165]思うばかりで斷行はしない。
そして草山は屡々、
「君、何か書かんか、僕が周旋しよう、君は原書が讀めるんだから、その中に面白い話が見つかるだらう、何なら、僕に話して吳れんか、翻案の材料に」
と云つて、多少生活の補助を計つてやるが、黑塚は何時も淋しく笑つて、首と手とを橫に振る。
「僕はとても書けりやしない。それにどうも忙しくつて、何をする暇もない」と云つて最後は「君は餘暇があるから結構だ」と、褒めるのか羨ましいのか冷かすのか、この男獨得の調子で云ふ。これが彼れのお定りの返事だ。そして腹の中では「何彼等に利用されて溜るもんか」と、竊かに反抗してゐる。
彼れは編輯室に入ると、ストーブの側で煙草を一本吸ふ。「給使、お茶と原稿紙」と呼ぶ。その聲は高く力がある。軍曹が新兵にでも命令する口調だ。草山は椅子に反[Pg 166]身になり諸新聞の綴込みを見てゐたが、
「開けない奴等だ。何だつてこんな眞似をするんだらう」と、鼻で笑つて、新聞を下に置き、「君讀んだかい、綾瀨と櫻井の喧噪を」と黑塚の顏を見た。
「ふん、大變面白い、綾瀨に同情する、眞劍だから活氣がある」
「兩方とも眞劍さ、だから可笑しい、あの連中は朝から拔身で構へてるんだね」と、草山は無斷で黑塚の煙草を一本奪つて火を借り、「綾瀨も西方寺時代にはよく來たものだが、この頃はちつとも姿を見せん、君は遇うかい。」
「いや滅多に會はん、眞面目に勉强してるやうだよ、あの男は狡い所がないからいい」と、黑塚は心の中では、多少草山に當こすつたつもりであつたが、草山は氣つかぬ風で、
「馬鹿正直で損ばかりしてると、人樣に同情して貰へるんだが」と笑ひ〳〵云つた。黑塚は不快な顏をして席についた。彼れの机は窓際に沿うて孤立してゐる。硯の塵を[Pg 167]吹き墨を磨り、凡そ二十分も、考へてゐると編輯長が來たので、
「問題はありませんか、緊要な問題がなければ、小說の禁止について論じて見ようと思ひます、少し考へもありますから」と後を顧みた。
「ぢや、それを書き玉へ」と、編輯長は卒氣ない返事をする。
彼れは筆を嚙んで一二行書いたが、次の句が出て來んので、原稿紙を丸めて反古籠へ投げ込み、案を立て直した。机の左右では草山や佐々良、それに編輯長も加はつて競馬談株式の話。
彼れはつい四邊の話に氣を取られ、筆が更に墓取らぬ間、時計は一回轉する。「何でおればかり急がしんだらう」「社長はこの寒さに競馬に行つてる」と、云ふやうな考へが、四邊の話聲に和して頭に浮ぶ。
「黑塚君、もう三十分ですよ」と、編輯長が急き立てる。
彼れは慌てゝ何が何やら分らぬながらに文字を臚列し、一段半程書きなぐつた。こ[Pg 168]れで一日中の大役が終り、二三時間は手が隙く。で、ストーブに近よつて、冷たくなつた天ドンを食つた。働いて食ふ甘さを感じた。飯一粒も殘さない。
ストーブの向うの薄汚い新聞臺には女記者が居る。何時もの通り地方新聞の切拔をしてゐる。彼れは何時もの通り「哀れなる女よ」と思つた。もう結婚期を過ぎて顏に艶がなく目にも力がないと思ひながら、その赤い房のついた可愛らしい鋏の動くのを見てゐた。
「この方が御面會」と、突如に給使が名刺を出した。彼れは言葉少なに腮で指圖した。しかし椅子から立上るには少し間があつた。女記者は切拔を持つて無心に彼れを見て席を轉ずる。彼れも無心に見て應接所へ行く。
來客は頰髯の見事に生へた男。彼れを見ると面相を軟げ、吸ひかけの卷煙草を火鉢に突込み、
「どうも御多忙の所を」と恭しく腰を屈め、「何新聞の鶴見さんが貴下にお願い申せ[Pg 169]といふことで」
「はあ、何の御用で」
「實は今日の新聞に私の學校の事が出て居りますが、あれは事實相違で御座いましてな」と、ぼつ〳〵その理由を說き出した。
「ハア〳〵」と、黑塚は身を入れて聞いてもゐなかつたが、相手が口を閉ぢるのも待たず、「しかし貴下のお望み通りの正誤も出せん、貴下の方で新聞紙條例によつて、取消でもお出しなれば格別」と、目を据ゑて嚴然として云ふ。彼れの顏にも活氣があつた。
「ですが取消だけではどうも」と、髯は容易に納得しない。二三度押問答の後、黑塚は、
「この新聞は徹頭徹尾責任を以つて書いてるんですから、輕々しく正誤も出せません」と斷言して、「少し用事が殘つてますから、これで」と、輕く會釋して應接所を[Pg 170]出た。
草山はもう帽子を被つて編輯室の戶口に立つてゐたが、
「黑塚君、君を捜してたんだ、一寸話したいことがある」と柔しく云つて、應接所へ連れて行つた。黑塚はポカンとして髯男の座つてた椅子に腰掛けた。
「別に急いだ話ぢやないんだが、君どうだね、三面へ來て吳れちや、實は三面も少し改良するので、君に助けて貰うと至極都合がいゝんだ」
黑塚は不思議さうにヂロ〳〵相手を見て、「だつて僕は二面の方がいゝ、政治や敎育に關係した方が興味が多い」と、自分でも信ぜぬことを云ふ。
「しかし、編輯をやつてゝは政界のこともよくは分るまいし、君の素養から云つても三面の方が適してるぢやないか、相互のためだ、一つうんと云つて吳れ玉へ……尤も今が今返事をしなくてもいゝがね」と、草山は杖で床を叩きながら、少し俯首いて云ふ。
[Pg 171]黑塚は、相互の爲と云ふ言葉を不快に感じ、「でも僕にや今の受持がいゝ、少し抱負もあるから」と云つて、腹では何でこんな男の下に使はれるものかと力んだ。
「さうだらう」と輕く首背いて、「けれどね、實は何だよ、主筆もそれを望んでるんだよ」
「主筆が」と、黑塚は目を尖らせ、「何か僕に落度があるんかい、」
「何、さうでもあるまい」と、あやふやに云つて、强いて笑顏を造り、「まあ、何時かゆつくり話さう、どうだいビールでも呑みに行かんか」とお愛相に云つた。
「いや、僕はまだ仕事が殘つてる、君のやうに早く歸れるといゝけれど」
と、黑塚は編輯室へ歸り、机上に堆積せる外交記者の齎らした議會の記事を添削した。粗末な原稿紙の曖昧な筆蹟を辿つて「國家十年の大計」だの、「満面朱を濺いで演壇へ上り」だのと元氣のいゝ文句を見てる中に瓦斯がつく。
彼れは硯箱を仕舞ふと同時に、草山の言葉が急に毒氣を帶びて浮んで來る。「彼奴の[Pg 172]中傷だらう」「あんな奴の下に使はれてなるもんか」と反抗心を起してゐた。
社員は一人減り二人減る。
彼れは暫らく机を離れない。反抗心は次第にゆるんで手賴りない氣になる。
「そうだ、今日は綾瀨を尋ねよう、彼れは我黨の士だ、僕に同感して吳れるに違ひない、草山のやうな俗物ぢやない」と立上り、今刷上つた初版の新聞を取つて、自分の書いた慷慨的論文を讀み〳〵階下へ下りた。下駄箱の前に社長が立つてゐて、使方が草履を出してゐる。競馬に負けたのか、社長の顏は苦虫嚙潰したやうだ。「何か云はれるか」と、彼れは胸騷ぎをさせ、恭しく會釋して、コソ〳〵戶外へ出た。
五六間前には、女記者が白い肩掛を纏うて步んでゐる。彼れも同じ道を取つた。埃臭い風が萎びた路傍の柳を吹いた。
[Pg 173]
五月幟
(一)
「穗浪村は人家三百戶」と、小學の敎師は二十年も前から兒童に敎へてゐる。この三百戶の八九分は漁業か農業、或は漁農兼帯で生活を立てゝゐるが、百八十番地の「瀨戶吉松」の一家は、母は巫女、息子は畵工。村に不似合な最も風變りの仕事をしてゐる。で、海が荒れて不漁が續いたり、暴風雨や蟲害で麥や稻の充實が惡いと商人も大工も石屋も疊屋も、或は僧侶神主、皆その影響を受けるのだが、殊に吉松一家は酷い。
しかし今歲は漁がよかつた。鯛も捕れた、鰆も捕れた、漁夫は沖で釣つた魚を賣つて、岡山や牛窓から縮緬の兵兒帶、疊付の下駄、洋銀の簪やら派手な手拭やら、土產物をどつさり買込み、尙魚籠には兩手で掬い切れぬ程の銀貨や銅貨を殘して歸つ[Pg 174]て來た。明後日は舊歷五月の節句であれば、遠海へ出稼に行つてる舟も、よく〳〵不漁でない限りは、久振りに陸の鹽辛くない飯を食ひに歸り、濱邊には珍らしく百艘近くの小舟親船が並んでゐる。そして吉松は諸方から幟の揮毫を賴まれて、近年に無く多忙である。
彼れは日限に迫まられ、五六日戶外へ出ず、夜も行燈の側で書いてゐたが、いよ々々今一つで描き終れるのだ。圖題は鎧姿の淸正で、略々形だけ出來上つてゐる。彼れは禿筆の先で淸正の髯を細く描きながら、疲れた肩を左の手で揉んだり、墨の染みた下唇を噛んで、細長い布を見上げ見下してゐる。一筆每に凛々しい姿の浮き上るのを見るにつけて、もつと奇麗な繪具が欲しくてならぬ。あの草摺もその臑當も他の色で彩つて見たい。何時ぞや大福寺で蟲干のあつた時、佛樣の繪を二三幅見せて貰つたが、どれも懷かしい繪具を用ひてあつて、見てゐて何といふ事なしにいゝ氣持がして、その前を離れたくなかつた。あんな繪具は何で拵へるのか知らんが、[Pg 175]自分も一年に一度でも、立派な繪具で絹地へ書いて見たいな。
彼れの左右には墨を溶かした飯茶碗と、小さい朱硯と、臙脂と藍を兩緣に塗つた小皿があるばかり。筆も小學生徒の手習用の一本二錢か三錢のを毛が擦り切れるまで使つてゐる。で、道具には不平を抱いてゐるが、好きな仕事ではあり、第一金が取れるのだから、自然に勵みもついて、身體の怠いのも我慢して、筆を運ばせた。家は二室だが、只閾で區切つてあるのみで襖も障子もない。上等の室には床板の上に薄緣を敷き詰め、次の室には座蒲團代りに一枚の蓆を敷いてある。繪布の裾は蓆の室へ挾出され巫女婆さんの膝に觸れてゐる。婆さんは片袖をまくり上げ、肥つた腕を露はして臼を挽いてゐる。居眠をし通して、朝から掛つてゝ、まだ一升足らずの粉が挽け切らぬ。
「吉よ、汝やまだ書いてしまはんか」
と、婆さんは附木で粉を搔寄せては張籠に移つしてゐる。
[Pg 176]「も少しで書いて仕舞わあ、お母はまだ挽いて仕舞はんのか」
「お母も、もう一握りでえゝんぢやがの、汝お腹が減つたら、お晝飯にしやうか、太陽樣もそろ〳〵隣りの牛小屋へ當りだした」
「さうかな、もう正午過か、そないになるたあ思はなんだ」
「どりやお茶でも沸さう」
と、婆さんは片手で膝を壓へ、「うんとしよ」と伸び上り、凸凹の多い庭へ下りて、柴を一攫を壓折つて茶釜の下へ投げ込み、附木で火を點けた。黑烟が渦を卷いて繪布の上を這ひ、低い軒下へ流れ出る。吉松は靑い顏を顰め、勢のない咳を出した。目を細くして戶外を見た。門口には五月雨の用意に柴や木片を堆高く積んである。空は見えぬが、日は鮮かに石ころ道を照らし、帽子代りに頰冠りして肥桶擔つた男が、腰を振つて通つてゐる。二三人首を抱き合ひ、得意氣に卷煙草を吹き、ゲラゲラ笑つて村の若い衆が練つて行く。「吉マよ」「チビ松」と聲を掛けて行く者もある。[Pg 177]尻端折り藁草履を穿いた水汲女が小さい桶を荷つて二人三人續いて通つた。井戶水は鹽氣があり、山蔭の泉のみが一村の飮料水となるので、盆と節句には泉が乾れると云ふが、急に家族の殖えた此頃、女房や娘は水汲が一日の大役なのだ。
吉松はその水汲の一人の後姿を見て、お竹ぢやないかと思つた。顏をも見せず、すた〳〵と行つてしまつたが、その眞紅の襷、脹らかな白い脛、どうも彼女らしい。で、彼れは少し伸び上つてにつたり笑つた。これを書いてしまつたら彼女に遇へる。磯の屋では節句を當て込んで、岡山からうんと小間物を仕入れて來たそうだから、彼女に簪でも櫛でも買つてやる。目顏で呼び出して泉の側の藪へ行くのだ。
二三年前から目星をつけてたお竹と、睦じい言葉を交はすやうになつたのは去年の秋。忘れもしない、彼女が藪下の川で洗濯をしてゐた。澄んだ水がちよろ〳〵と草の中から流れて來る。お竹は絞りの手拭を姉樣被りにし、幅の廣い滑らかな石の上に少し屈んで立ち、足の甲まで水に浸し、兩足で調子よく汚れ物を踏んでゐた。周[Pg 178]圍に人の聲もしない。只烏が寺の屋根に鳴いてゐるばかり。その時此處を繪に書きたいと思つた。その姿もその顏も、この村にや比べる女はありやしない。それで「私の女房になるか」と云ふと、首を橫に振らなかつた。あんな別嬪が私の女房になるんだぞ、村の小若連の集會に行くと、吉の野郞は二十歲になつて、まだ衒妻一人よう拵へぬ、意氣地なし奴といつて、皆んなして冷かしやがるが、どうだ羨ましからう。
彼れはうつとり考へ込み、やがて又にやりと薄氣味惡く笑つて筆を執つた。で、漸く書き終つた頃、茶釜がジン〳〵音を立てる。
「吉、お茶が沸いたでえ」と、婆さんは棚から膳と飯櫃を卸してゐる。
「お母、初野はまだ戾らんかな」と、吉松は痺れた足を撫で〴〵膳の前へ坐つた。米一分の黑々とした麥飯を茶碗に山盛りにし、茶柄杓で茶を打かける。
「彼女は今朝飛出したきり、まだ戾つて來ん、柏餅を早う拵へて吳れいとせがんど[Pg 179]いて、今まで何處を步いとるんだらう」
「又皆なに冷かされとるんぢやないか、あの阿房に困るなあ、早う死腐れやえゝのに」
「汝や何をいふ、阿房でも狂人でも、汝の眞實の妹ぢやないか」と、婆さんは鐵漿の斑らな齒で、漬菜をばり〴〵噛みながら、金壺眼で吉松を睨んだ。
「そがい云ふても、初野が居りやがるんで、物入りが多うなつて仕樣がない」と、吉松は慳貪に云つた、「それになあお母、彼女が居ると、私や嫁が取れんぞな、家は狹いし、初野は大飯を食うから」
「そがいな事心配せえでもえゝ、汝や苦勞性ぢやから、何んだれ彼だれ案じてばかり居るけいど、入らんこつちやがな、嫁を取りたけりや、何時でも好きな女子を連れて來いよ、お母と初野はこの蓆の上へでも寢りやえゝ、それに彼女を連れて御祈禱に廻りや、袋に一杯や二杯のお米は、何處からでも貰うて來られる、汝一人の世[Pg 180]話にやならんがな」
「貰う者は何ぼ貰うてもえゝけど、乞食見たいな事をして下んすな、村の者は私の父ちやんは狂人で、お母は乞食、妹は阿房ぢやと云ふて笑うとるがな」
「笑うたて構うもんか、澤山お甘い者を食べさへすりや、汝、云ふ事あないでないか」
「お母はようても、私やつらいがな」
婆さんは吉松の憐れつぽい小言を聞きながら、緩々食事を終ると、汚れた茶碗や小皿を隅の方へ押しのけ、坐つたまゝ臼の側へにじり寄り、口の内で眠そうな引臼唄を唄ひ、又粉を磨り出した。
吉松は布の乾くのを待つて、それを白木綿の大風呂敷にくるんで外へ出た。空には白い雲が漂ひ、柔しい風が沖から吹いて來る。海邊近く太い松に圍まれた住吉神社では太皷の音がして、子供の喜び騷ぐ聲がする。この前お詣りした時は、神社の扉[Pg 181]は鎖され、埃の積んだ階段に子守が二三人腰掛けてるばかり。境内は寂寥としてゐたが、今日は馬鹿に賑やかだ。今夜神前で大漁祝ひの集合があるさうだが、宮を中心にして、通る路々何處を見ても景氣付いてゐる。そして吉松も生々した空氣に胸の鼓動し、譯もなく悅しくなつて、大急ぎに步き出した。
(二)
彼れは小學校も二年で止めた。繪畫の敎育など更に受けたことがない。しかし何時の間にか獨りで工夫して書き出した。少い時から棒切れで地上に描いたり、消墨で板に描いたりした。草紙へも碌に手習ひはせず、虎や人形を書いてゐた。十三歲の初夏、大酒呑の父が、麥刈最中に發狂してから、詮方なく自分も日雇稼ぎをして、一家の活計を助けたが、チビ松と綽名を付けられる位、身體が小さくて弱いため、人並の仕事は出來ず、一日鍬を持つと關節が挫けるやうであつた。と云つて一日惰ければ、一日食はずにゐねばならぬ。狹い田舎だから、力業をしなければ外に糊[Pg 182]口の道もない。泣いても叫んでも一生野良仕事をして、鍬と心中する覺悟を定めねばならなかつた。所が或正月豐年祝ひとして、若い衆が勸進元で村芝居を催すことゝなり、寄つて集つて衣裳や小道具を借り集め、出し物も千本櫻に阿波鳴門と定つたが、困るのは書割だ。無くても濟むが、凝り性の連中は、夫れ迄大趣向を廻らし、どえらい物を拵へて播州あたりの本職の役者をも驚かしてやらうと云ひ出した。で、村中で繪心のある者を捜して、間に合せに描かすことゝなり、評定の結果吉松が命を受けた。古老の指圖で、木綿の白布や、數枚繼合せた繪畫用紙に、鳥居に玉垣、椎の木などを描いた。それが思ひの外の出來榮なので、急に彼れの畫才が一村の漁夫や百姓に認められ、次第に隣村にも知られるやうになつた。この界隈の五月幟、漁夫の崇める惠比壽大黑の掛物は皆彼れの筆を煩はすのである。
* * * * * *
[Pg 183]彼れは依賴者にかの布繪を渡して、五六十錢のお禮を貰ひ、それから磯傳ひに二三軒未納者を訪ねたが、何れも氣持よく拂つて吳れる。
「吉ヤ汝や每歲繪が上手になるぜ」「今歲の淸正はどえらい元氣がえゝ、厄病神も逃げてしまう」と、行く先々で褒めて吳れる。で、吉松は袂の中に錢の音をさせ、大得意で心は急いても、わざとゆつくり步いて、お竹を捜しに行きかけた。日は山の端近くなり、潮も退きかけ、半ば海へ突出た駄菓子屋の支柱は、濡れたまゝ根本を露はしてゐる。店前には多數の若漁夫が陣取り、粟おこしやら大福餅やら、てんでに攫んでは食ひ、大聲で笑つたり叫んだりしてゐる。彼等の話題に上る者は、大抵は喧嘩か女、或は賭博、しかも四邊かまはず露骨な言葉で持切りだ。たま〳〵澁皮の剝けた若い女でも通れば、戯けた口を利いて、大勢でどつと囃し立てるは愚か、惡くすると道邪魔をして罪な諧戯を始めることもある。又中には諧戯れたがつて、自分で押かけ、簪位奢らせてやらうと云ふ女もある。漁夫の休日にはこの駄菓子[Pg 184]屋が倶樂部になつて、時には賭博宿も兼ねるのだ。
吉松は何氣なくこの店先を通りかゝり、ふと氣が付いて見ると、意地の惡い奴等が揃つてゐる。牙齒の龜もゐる、備前德利の米もゐる。ダニの虎、猪首の鶴、村を騷がす連中が皆久振りで歸つてゐる。惡い所へ來合はせた。あれ等に掛り合つちや碌な事はないと、知らん顏で行過ぎやうとすると、鶴が素早く見つけて「吉公ぢやないか、まあ寄れいよ」と呼留めた。吉松は仕方なしに振向いて、「今日用が殘つとるから遊んぢや居れん」と、一寸お世辭笑をして行かうとしたが、「まあそないに云はずに寄れと云うたら寄れいよ」と云ふと共に、龜は駈け出て、兩手を開いて道を防いだ。
「今日は堪へて吳れ」と吉松は情ない聲で云つて、くゞり拔けやうとしたが、龜は肩を攫へて離さない。
「さうら逃げるなら逃げて見い、鳴門の海を漕ぎ切つた腕ぢや」
[Pg 185]吉松は鷹に攫まつた小雀、爭ふも無駄だから、そのまゝ小さくなつて店へ引摺込まれた。袂の銀貨がヂヤラ〳〵音を立てる。
「汝も澤山錢を持つてけつかるな」と、龜は吉松の袂を握つて重味を量り、牙齒を剝き出して笑ふ。
「汝に聞くことがあるから、まあ坐れい」と、年長の虎は後退りして席を空けて、吉松を坐らせ、「吉公は何時見ても白瓜のやうな顏しとる、何處か工合が惡いんか、大事にせえよ、汝が煩らうと、家の者あ乞食せねや饑え死にぢや」と柔しく云つたが、吉松は厭な氣がした。自分が死ねば母と妹とは乞食をするのは分つてゐる。それに母は乞食を恥とするやうな人ぢやない。で、彼れは魔がさしたやうに自分の死後を思つて、鬱ぎ込んで默つてゐると、米は鼻に皺を寄せてヒツ〳〵と笑《わら》つて、
「思案投首で何をしとる、衒妻の事でも考へとるか、汝やお竹と夫婦約束したちうぢやないか、」
[Pg 186]「さうぢや〳〵、誰れやらがそんな噂をしとつた」
「汝も中々惡さをするのう、私等が一寸漁に出て村に居らん間に、こつそり女子を拵へるたあ、汝もえらいぞ、祝ひに酒でも奢らんか、その袂の錢で」
と、皆んなで面白さうに色んな事を云つて、冷かしては笑ひ、笑つては冷かす、吉松は我知らず袂を握り締め、
「虛言ぢや〳〵、そがいな事があるもんか」と、狼狽てゝ云つて、顏を少し赤くした。
「隱さんでもえゝわ、ぢやけど汝もお竹だけは諦らめい、あの女子はな、ちやんと主が定つとるんぢやぞ」と、虎は毛脛を出して胡座を搔き、澄ました顏で煙草を吸つてゐる。
吉松は一座を見廻して、最後に目を丸くして、虎の顏を見詰めた。
「お竹にやちやんと主がある」と、虎は繰返して、「汝やまだ知るまいが、彼女は源[Pg 187]兄の者に定つとるんぢや、源兄が去年土佐へ行く時、お竹は己が嫁にする、五月の節句に歸るまで、彼女に手でも觸つて見い、承知せんぞと、私等に云ひ付けたんぢや、汝も氣を付けい、うつかりしてお竹の惚氣でもぬかすと源兄に首つ玉あ捻ぢ切られるぞ。」
その様子が萬更戯言でもなささうなので、吉松は眞靑になつて震えた。頭を奇麗に刈込んだ新客が入つて來て、漁の話を仕掛け、虎の仲間は最早吉松を相手にしなくなつた。鶴は何時の間にか大の字に寢て鼾をかいてゐる。
吉松はこそ〳〵と外へ出た。もう二月も手入れをせぬ髮は小さい耳朶を蔽ひ隱し、細かい棒縞の單衣は華やかな夕陽に照りつけられ、繪具の名殘が黑く靑く光つてゐる。虎の威嚇文句がまだ耳元で鳴つてるやうで、彼れの魂はくら〳〵して身に添はぬ。源と云へば駐在所の巡査も恐れて手出しをせぬ程の暴れ者。腕力が强くて三人前の仕事もする代り、癇に觸ると、出刃庖丁を振り翳すのが評判の癖だ。十五六で[Pg 188]魚賣りをしてる時分から、魚源命知らずと、饅頭笠に書いて隣村へも名の通つてる男だ。虎でも龜でも源にや道を避けて諂言の一つも云ふ。彼れに見込まれちや、厄病神に取付かれたやうなもの。何だつて私しやお竹なんか思つたことか。
彼れは源が下駄で旅商人を滅多打ちにしたこと。大酒飮んで素裸で村長の家へ怒鳴り込んだことなど思ひ出してぞつとした。お竹を呼出す計畵なんか頭の中から消えてしまひ、只源の顏ばかり目に浮ぶ。何故源の船が土佐沖で沈沒しなかつたんだらう。何故鳴戶の渦に捲き込まれなかつたのだらう。何故私を庇つて吳れた人のいゝ芝居好きの作藏爺が早く死んで、源のやうな奴は虎烈剌にも罹らぬのだらう。
吉松は神社の方へ向つて石ころ道を辿つた。道の左右には貝殻の塚が所々に築かれ、真紅の石榴の花が白壁の側に咲いてる。彼れは夢心地でそれを見てゐたが、太皷の音や鈴の音がます〳〵賑やかに聞える。子供等は祭ででもあるやうに、群をなして玉垣の前を飛んだり跳ねたりしてゐる。
[Pg 189]「兄よ」と、突如に聲がした。
驚いて見ると、初野は眞向ひに立つてキヨロ〳〵してゐる。鹽たれた單衣を赤い扱帶で締め、埃に染める白茶けた髮を藁で茶筅のやうに結び、顏から首へかけて垢で塗られてゐる。
「兄よ、お前時さんに會はなんだか」と、尙前後を見廻す。
「會ふもんか、汝ももう家へ戾れ、お母が柏餅を拵らへて待つとるから」と、吉松が手を執ると、
「柏餅か」と云つて笑つたが、又身を藻搔いて手を振放し、
「そいでも、時さんが私を捜しとると、皆なが云ふから、あの人に會はにやならんもの」と呟いて、鳥居の前をウロ〳〵してゐる。以前から玉垣に寄りかゝり初野を調戯つて喜んでた連中は、此方を見て「初野さん〳〵、時さんはお地藏様へ行つた」と囃し立てゝ、どつと笑つた。
[Pg 190]「本當にお地藏樣へ行つたのかな」と勢のない聲で云つて、初野は西の方へフラフラ步いて行く。
吉松は情なくなつて淚を浮べた。この瞬間恐ろしい源の事を忘れ、只白痴の妹が年中村の子供の玩具になるのを恥しく思つた。そして悄然家へ歸ると、母は膳を出したまゝ、板の間へ眠つてゐて、頭の側には一つ二つの蚊が幽かな音を立てゝ飛んでゐる。
(三)
吉松は酒も飮まぬ。唄も唄へぬ。漁師仲間とは性が合はぬから、平生仲のよい友逹は少い。今夜の集合にも誘ひに來る者もなく、又とても行く氣にもなれぬ。で、早く晚食を濟ませ、神棚の燈明皿に燈火をつけ、上り框に腰を掛けて沈んでゐた。昨夜は幟に忙しくて何となく悅しかつたが、今夜からは繪の仕事もなくなつた。平生なら夜業に草鞋を造るのだが、今夜は肩が怠くて氣分が欝いで槌を持てさうでもな[Pg 191]い。婆さんは行燈も點火さず、燈明の光で絲を紡いでゐる。數町を隔てた宮では太皷の音がます〳〵賑やかに聞こえる。
「吉よ、汝や錢を何處へ置いたか」と、母に問はれて、吉松は振返り。
「其處の戶棚に入つとらあ」と云つて、薄光りに緖卷の絲のブル〳〵震ふのを見てゐる。
「何ぼ溜つたか」
「今月は三圓ばかし貰うて來た。まだ三軒殘つとらあ」
「そがいに吳れたかい、そいぢやえゝお節句が出來るなあ、お母も明日はお高姊の宅へお祈禱に賴まれとるから、又錢になるし、麥の二俵や三俵は庭へ積めるわい、汝も嫁を娶るなら今が丁度えゝ機會ぢや、誰れでも好きな女子がありや連れて來い」
「私や嫁を娶らんでもえゝ、一生獨りで暮すんぢや」
「そいでも、今朝は嫁を娶りたいと云ふたぢやないか、芳でも鶴でも梅でも皆んな[Pg 192]嫁があるんじやもの、汝も欲しからうがな」
婆さんの聲は欠伸まぜりで、次第に絲車も間斷勝ちになる。吉松は時折話しかけられても碌に答へぬ。で、暫らく母子脊合はせで默つてゐると、何時の間にか初野が勝手口からノロ〳〵入つて來た。白痴の中でも陽氣に騷ぐ方ではなし、口數は少く戶外へ出るにも歸るにも、大抵は忍び足で、家の者にも氣づかぬ位だ。兩方の袖口を持つて、しよんぼり庭に突立つたまゝ左右を見廻し、
「お母、家は暗いなあ、兄よ、お宮は賑やかぢやぞ」と、低い聲で云つて、草履を引摺つて又戶外へ出かけた。
「初は朝から御飯も食べいで、何をしとるんなら、もう何處へも行かいで、早うお夕飯を食べなよ」
と、婆さんは猫撫聲で云つたが、初野は「そいでも家は淋しいもの」と、何處へか行つてしまつた。
[Pg 193]「また皆んなに嬲られたいんか」と、婆さんは獨言のやうに云つたが、最早娘を氣にも掛けず、絲車を離れもせぬ。
吉松も今宵は住み馴れた家を、際立つて暗く感じた。室に這ひ上つて行燈をつけ、燈心をかき立てたが、隅々は尙暗い。天氣が變つたのか東風が吹き出し、ソヨ〳〵と裏口から入つて來る。枇杷の木も騷ぎ出した。宮の太鼓の音は止んだが、ワイワイ叫ぶ聲は一層盛んに聞える。彼れは耳を傾けてゐたが、やがて不意に起上つて、聲する方へ向つた。三日月は既に沈んで、天遠く星が力弱く光つてゐる。
彼れは小暗き道を通つて、玉垣の側に彳んだ。鳥居の根本は出入の提灯の光に照らされ、松葉に蔽はれた敷石が明るくなり暗くなつてゐる。醉漢の聲が遠くなり近くなる。神社の扉は廣く開いて、神前には大きな蠟燭の光が燿き、左右には數十の漁夫が居並び、中には片肌を脫いでる者、胸毛を露はしてる者。怒鳴つては呑み、呑んでは怒鳴り、言葉の綾も分らず、只騷がしい蠻音が一つになつて、酒の香ひと共[Pg 194]に神の境内に漲つてゐる。神社の周圍には小兒が群がり戯れてゐる。常の夜は漣の音と松風ばかり。丑三つには呪咀の女が白裝束で蠟燭を頭に戴き、呪文を誦して松の幹に、胸の恨みを籠めた五寸釘を打つと、母から聞いてゐるが、その淋しい淨地は、一村の勸樂の巷となつてゐる。
吉松はその聲を聞きその香を嗅ぎ、熊の如き腕をまくつた人々の勇ましい姿を垣間見てゐた。しかし團樂に飛込みもしない。
「兄よ」と後から突如に聲がした。顧みると初野は依然兩方の袖口を持つて、無心に身體を搖ぶつてゐる。
「兄はお宮の中へ行かんのか」と、兄の顏を不思議さうに見た。
「汝やまだ此處に居るんか、皆んなに嬲られん間に、早う家へ戾れ、お母が待つとる」と、吉松は常になく柔しく云つて、妹の袖を捕へやうとすると、初野は身を翻へして松の蔭に逃げた。
[Pg 195]濃い雲が東の山から吐き出されて、空へ廣がつてゐる。
「明日は雨か」と、チヨン髷の老漁夫がいぢかり股で石段を下りた。
飮み盡くした空德利を提げた千鳥足が鳥居の左右へ散つてゐる。先立つたのと遲れたのと互ひに呼んでは答へ、「畜生め」「馬鹿野郞」の聲が姦しく闇から闇に傳はる。吉松は彼等が今宵至る所に賭博に耽り、女に弄むれる樣を想像して、羨ましく嫉しく感じた。
大勢の後から、手拭を首に結んだ一群が、社内を出て、お百度石を取圍み、何か小聲で話し合つてゐる。虎もゐる。龜もゐる。頻りに首肯いてゐるのは源らしい。と思ふと、吉松は空想の消えて急に恐氣がつき、玉垣の蔭に小さくなつた。そして彼等が鳥居を潜るのを待ち、靜かに歸りかけた。
星は殘りなく隱れた。沖には常に見る漁火の一つもなく、舟唄も聞えず、暗い波は黑い雲と接して、只風にもまれた滿汐の音が高い。
[Pg 196]「兄よ、沖にや海坊主が居るんぢやなあ」と初野は闇の中から聲を掛けた。吉松は默つて妹の手を執つて家へ歸つた。母の影は障子に薄く映つてゐる。絲車の音も聞える。
(四)
翌日は雨。風も少し加はつた。婆さんは鈴を持つて、お高姊の家へ生靈退治に出かけた。初野は柏餅を腹一杯詰込み、津蟹の鋏を絲で縛つて弄んでゐたが、やがて厭いたのか、傘も差さずに、雨を犯して當度なく出て行つた。吉松は只腹匐ひになつて戶外を眺める。
びしよ濡れの水汲女が昨日と同じく、跡切れ〴〵に通つてゐる。醉つて銅鑼聲で唄つて通る者も多い。竹の皮鼻緒の足駄を引ずり德利を提げた子供が俯首いて錢を讀み〳〵通つた。番傘を擔いで萌黃の重箱包を柄の先にぶら下げた小娘が粽を嚙りながら通つた。どれもどれも見馴れた顏だ。
[Pg 197]彼れは目では戶外を見ながら、心では昨日の出來事を思ひ浮べた。他鄉を知らず書も讀まぬ彼れには、夢にも現にも一村の事件が凡ての智識であり想像であるのだ。で、今日も彼れの貧れな智識の卷を繰廣げて見たが、その全世界には源もゐる、龜もゐる。彼等は繪本で見た綱や金時のやうな腕を持つて、一村に跋扈してゐる。彼等が生ける限りこの村は泰平ではない。私のやうな痩腕で叶うものか。
彼れは又お竹のことを思ひ出した。その機織姿や田植姿が印象の强い頭にあり〳〵と浮び、兼ねてのひそ〳〵話も、今聞く如く感ぜられたが、ふと源の事に思ひ及ぶと、樂しい夢は一時に消えてしまひ、果してお竹が源を思つてるのか、虎の吿口が眞であるか戯言であるか、靜かに考へる暇がない。只彼れを打たんとして源が拳を握つてる姿が見えて、自然に目を瞑つた。
雨は急に强くなり、戶外は一層暗くなつた。板の間には藁屋根から雫が垂れる。隣りの牛が大儀さうに吼える。知らぬ間にお竹が綛の前垂れを頭に戴いて軒下に立つ[Pg 198]てゐた。
「吉さん、傘を貸してお吳れんか」
吉松は幻影でも現はれたやうにギヨツとして、目を丸くした。
「私んとこに傘があるもんか」と、態と橫を向いた。
「家にや誰れも居らんかな」
「むん」
と、微かに云つたのみで、吉松は薄緣に顏をすり付けてゐる。
「吉さん、先日の話はどないするんかな、考へちや居らんのかな」と、お竹は小聲で云ふ。吉松は默つてゐる。
「ちつとは小降になつた」と、お竹は空を仰いで、「なあ吉さん、お節句が濟んだら船が出るから來てお吳れな」と甘えて云つて、前垂を被つたまゝ尻端折つて駈け出した。
[Pg 199]吉松は頭を持上げて、夢見たやうにその後を見送り、姿が見えなくなると又寢そべつた。何故もつと話さなかつたらう、問はなかつたらうと後悔した。「舟が出たら會はう」、節句が濟めばお竹の父も沖へ出て、彼女の身も暇になる。源も龜も海へ行く。さうなればお竹の心も確められる。と思ふと一縷の希望が浮ばぬでもない。明日明後日明後々日と、彼れは指を折つて、「八日には腕の强い血を恐れん奴は、島の向う浪の荒い沖へ出てしまう」と、にやりと笑つた。
しかし子供の時分から胸に刻み込んだ不安心は、今も消え失せず、ちよろ〳〵舌を出す。彼れには村が恐いのだ。盂蘭盆とか氏神祭とか、四季折々の賑ひには、屹度下駄が飛び鉈が飛び、血塗れ騷ぎの起るに定つたこの殺伐な村が恐い。何だつて皆んなが仲よく面白く暮さんのだらう。せめて命知らずの源が死んだなら、此村も少しは穩かになるかも知れぬ。喧嘩の數も少くならう。龜や米も源に唆かされて付元氣で暴れ廻るんだから、親分の源がゐなければ、あんなに無理非道な人困らせをせ[Pg 200]んに極つてゐる。
「村の爲自身の爲、源が死んだら〳〵」と、二十分も三十分もそればかり考へた。驟雨模樣のドシヤ降りが通ると、密雲が薄らいで戶外は稍々明るくなつた。初野の弄んでゐた津蟹は泡を吹きながら、吉松の頭の側へ這つて來た。彼れはふと思ひ立つて、絲を手繰つて、蟹を柱に縛りつけ、塵紙に寫生を始めた。蟹は飛び出た目に怒を含んで藻搔き出す、紙にもその藻搔いてる樣が生々と現はれた。興が湧いて五枚六枚書き續けたが、やがて惜氣もなく鼻をかんで、丸めて外へ投げた。軒下に羽搔を縮めてコロ〳〵と鳴いてた鷄は、餌と思つたか、反古紙をつゝき出した。低い石ころ道を番傘さして、白裝束の母と赤い顏した妹とが歸つて來る。
「本當に〳〵、源の死ぞこない奴覺えてやがれ」と、母は怒鳴つて、初野を家へ引上げた。初野はぼんやり立つてゐたが、蟹が目につくと、柱から離して居間中を引まはす。
[Pg 201]「おのれ糞、源の獄道」「罰當り奴」と、喧しい聲が響き渡る。吉松は呆氣に取られて、母の顏を見上げ、
「お母、どうしたんなら」
「どうしたも何もあるもんか、汝まあ聞いて吳れい、お高姉のとこから戾りに、米公の前を通ると、初野が眞赤な顏をして裸になつとるぢやないか、何をしとるんかと思うて入つて見ると、汝、源や龜が大胡床かいて酒を食うとりやがつてなあ、初野に無理無體に酒を呑ませて踊らせとるんぢやでな、そりを見て、私や腹が立つて〳〵、飛込んで叱りつけてやると、汝、尙の事皆んなが惡戯氣出しやがる、終にや私の持つとる鈴を出して、囃しちや馬鹿踊りを初めやがる、大事な鈴が汚れちや、私の命を取られたも同じでないか、今に見て居れ、祈り殺してやるぞ」
と口惜淚を濺いだ。吉松は心では怖氣がついたが、それでも母を慰めるつもりで、
「そがいに怒らいでも、私が仇を取つて上げらあ」と云つたが、母は氣がむしやく[Pg 202]しやして、常になく邪慳に、
「汝や口ばつかりで、源の腕に叶ふもんか、汝が弱虫じやから、初野まで皆んなに意地められるんぢやがな」
「さう云ひなさんな、私も男ぢやもの」と、吉松は不快な顏をした。母は鈴を眺めて血相を變へてゐる。
(五)
晩餐が終ると、母は絲車へ手を掛けたが、もう氣が落付いたらしく、慳貪な口も利かなくなり、顏色も平生の通りに眠むさうだ。雨がまだ止まぬので早く戶締をして、初野は宵の口から寢間へ入つた。遠方から幽かな聲が風につれて吹き込むのみで、今夜は昨夕と異つて靜かだ。
「吉、もう寢えよ、お母も寢るから」
「私やまだ眠むたうない」
[Pg 203]吉松は村長の宅へ繪本でも見せて貰ひに行かうかと思ひ、門口まで出た。見る限り果てのない暗黑世界、後の山も宮の松も闇に沒して、天にも地にも豆粒ほどの光もない。で、急に恐ろしくなつて家の中へ駈け込んだ。煤ぶつた金比羅神社のお札の前に、燈火は丁子を結んでゐる。彼れは燈明を搔き立て、油を注ぎ、その前に端坐して、一家安穩四海泰平の願を籠めた。初野は夢に泣聲を立てゝ、「兄よ、來て吳れ、恐いがな〳〵」と叫んで、口から涎を垂れてゐる。
吉松は自分が妹一人庇うことも出來ぬ腑甲斐なさを思つた。親子三人が雨風に曝され、乞食になつて流浪する樣が思はれた。
でも、考へてる中に何時となく妹の傍へもぐり込み、木枕をして眠入つた。斷え斷えに苦しい夢に襲はれたが、ふと芥溜で拾つた錆びた瓦釘を持て、宮の松の樹に源を呪つては打ち〳〵してゐると、愕然と目が醒めた。妹が彼れの肚腹を蹴つてゐる。燈明は消えかゝつてゐる。
[Pg 204]丑三つは今時分だらう、宮へ詣つて源を咀ひ殺したい。彼れが死ぬりや一村の災が除けると思ひ込んだ揚句、自分が自分で恐ろしくなつて、蒲團の中へ首を引込めた。
* * * * * *
翌日は五月五日。雨は名殘なく晴れ、冴えた光は一村を包んでゐる。吉松は晝餐の御馳走にと魚買ひに出た。道の左右の葺屋瓦屋、家々の門には五月幟が勇ましく飜つてゐる。小兒等は諸方の幟見物に廻つてゐる。吉松は何となく得意になつて空を見上げてゐると、源が籠を提げて近づき、
「吉公、汝も壯健か、久振りじやのう」と笑顏をして、「沙魚をたんと貰うたから、汝にも分けてやらう、さあその鍋を此方へ出せ」吉松は返事もせず棒立ちになつてゐる。凉しい鹽風が顏を掠める。
[Pg 205]
村塾
寄宿舎のはづれ、松の樹に蔽はれた櫓風の高い古堂から、ドン〳〵と太鼓が鳴つて、擂鉢の底のやうな平地を越して、向うの山へ響き渡る。その最後の音の消えぬ間に、袴を着けた二十歲前の少年が、正門や通用門から打つゞいて、幾人となく現はれて來る。校舎の石壁を背にして丁字形の細い道路に溢れて、麥の中、菜種の中にも散らばつた。
今澤定吉もその一人だ。文章軌範と靖獻遺言とを、布呂敷にも包まず左の脇に抱へ、右の手は木綿の兵子帶に挿み、同じ年頃の通學生A君と無邪氣な話しをしながら、草履穿きで畦道を傳つた。この學生とは四五日前に、東京の雜誌の交換を約してから、急に懇意になつたので、每晚往來して、文章の議論などをして居る。
「君は何故寄宿舎に入らんのだ」
[Pg 206]「僕あ入りたいんだけれど、親爺が寄宿舎を嫌つてるから」
「そうかい、昨夕は谷村が蒲團蒸しにされたさうだな、寄宿舎の奴は亂暴だ」
「何だか賄征伐をやると力んでる奴がある、喜公も生意氣だから擲ると云つてるよ」
「寄宿舎の者あ、碌に勉强もせんで、そんなことばかり考へとる、僕等は矢張通學して、餘暇には文章でも書いた方がいゝねえ、君」と、A君はさも深く感じたように云ふ。
やがてA君は支道へ分れた。
「ぢや失敬」
「今夜は僕の家へ來給へ、紅葉亭の方へ散步しよう」
今澤は「あの男も面白いいゝ人間だ」と思つた。此頃は凡ての人が懷しい。新しい知合になつた村の人も學友も、凡て懷しい。
二三步すると、麥と麥との間に女の背が見える。よく見ると宿の娘だ。十七だと云[Pg 207]ふが、色が白く靨があつて可愛らしく、そして親切だ。これも懷かしい一人。
娘は藁畚から腐つた木の葉を攫み出して、畆の中へ散らしてゐたが、彼れが近づくと莞爾として、汚れた手で頭の手拭を取り、恭しく挨拶して、
「もうお歸んなさるかな」
「いゝや、今日は午後からお休みだから、少との間、何處かで遊んで歸ります、晝の御飯もゆつくりでよろしい」
「左樣かな、最少しすると、向ひの叔父さんも魚市から戾つて來ませうから、何かお魚を持つて來て吳れませう」
「ぢや、それ迄僕は腹を減して來る。」
今澤は肥料の香ひが、畝の中から湧き上るのに眉を顰め、急いで通り拔けた。小溝の丸木橋を渡り、道側から馬の背ほど高くなつてる空地へ匍ひ上つた。柔かい草が一面に生へてゐて、寢ころぶと肱や首筋にひやりと觸れる。それが何となくいゝ氣[Pg 208]持だ。雌摑の歪んだ葉が疎らに空を遮つて、眞晝の光も眩しくはない。雲雀の聲が獨り忙しく、近く遠く聞える。
彼れは今年の三月――明治二十五年――初めて兩親の膝下を離れ、この山間の百姓家に、自分で寢床をのべ、獨り淋しく眠るやうになつてから、天氣さへよければ、殆んど每日この空地へ來る。時には國民新聞や少年園を漢書の間に挾み、放課時間に讀みに來ることがある。或大家の「熱海だより」に「上に幽禽の囀ずるを聞き、下に淸瀨の咽ぶを聞き、ヲルヅヲルスの詩を誦し候」とあるを讀んで、小さい胸を轟かせ、自分もその境涯に身を置いて、ヲルヅヲルスの代りに、靖獻遺言の屈原傳を朗讀したこともあつた。時には母の手紙を持つて來て、繰返し〳〵暗記する程讀んで、逸かに故鄕の春を思つたこともある。或は袂に駄菓子の袋を入れて、この木蔭で腹一杯に貪つては、喉が乾くと、篠笹に縋つて後の渓流へ下り、淸水に口を浸すこともある。
[Pg 209]しかし今日は讀べき雜誌も新聞も持つてゐない。食ふべき菓子も持つてゐない。只寢ころんで春の空氣に浴してゐるばかり。やがて兩手で頰杖ついて、目前にちらちらする糸遊を眺め、ピイツク〳〵と雲雀の口眞似をした。それも厭くと、何だか眠くなつて、暫くウト〳〵してゐた。
車力の音に夢が融けて、寢たなり目を開くと、數町先の彼れの宿のあたりから、淡い煙が舞い上つてゐる。
悠長な鼻唄と共に、道の曲角から竹籠を擔いだ逹公――宿の娘の所謂叔父さん――が現はれた。
「貴下は何をしてゐなさる」
「何でもない、お前の歸るのを待つとるんだ。甘い魚があるかな」
「あるとも、まあ下りて見なされ」と、竹籠を下へ置いて、鉢卷を取つて、それを廻して風を呼ぶ。
[Pg 210]今澤は投げ出されてる書物を拾つて、懷中にねぢ込んで驅け下りた。逹公は竹籠の柴を搔き分けて、
「そうれ、黑鯛もあらあ、針魚もあらあ」と指示した。
「甘さうだな」と、今澤はさも欲しさうに云つて、針魚の長い嘴を抓んで見る。靑い縞が日を受けて燦く。逹公は自分の子供でも綾すやうに、
「さあ一緖に歸りませう、歸つて料理して上げます」と、竹籠に葢をして擔つた。
野道には通學生は消えて、寄宿生はまだ散步に出て來ない。逹公は黑い脚に太い筋を浮かせて、先きに立つて行く。今澤は肩上げのある粗い絣の袷を着て、減き腹に强い食慾を感じて、後からついて行く。
逹公は本職の畠仕事の傍、魚賣りをして、三日に一度位は三里あまりもある海邊へ出掛ける。總領の喜助は寄宿舎の賄方に入つてゐる。そして今澤は宿が逹公の家と向かひ合つてゐるので、風呂にも入りに行く。怠屈な時は話をしに行く。初は逹公[Pg 211]の顏が恐かつたが、腹の中は柔しい親切な人らしく、二三度會うとこれも懷かしい一人となつた。家族の者が皆んなして可愛がつて吳れる。入學當時旅窓の淋しさ怠屈さをこの家族によつてどれ程慰められたであらう。「貴下はこんな山の中へ來て、お甘い者が食べられんからお困りぢやらう、不味い者食べて瘠せちや、國のお母さんが泣きなさる。」とは、逹公の女房の口癖で、團子やお萩が出來ると必ず持つて來て吳れる。魚市へ行くと屹度魚を屆けて吳れる。そして今澤は母から送つて來る小使錢の半ばは、この魚代に拂つてしまう。
彼れの宿の前は欝蒼たる山、木樵の斧の音も手に取るやうに聞える。彼れは開け放した部屋で飯を食ひ、母への手紙を認てゐると、「御勉强ですか」と、靑脹くれの背の高い男が日を遮つて前に立つた。壯太と云つて、喜助と同じく、寄宿舎の賄方だが、中々大志を抱いてゐて、暇があれば學課を傍聽してゐる。前からこの家へは遊びに[Pg 212]來てゐたが、今澤とは同國だといふので、遂に懇意になり、古雜誌などを借りて行く。
「君は今日講義を聽きに出ましたか」と、今澤は手紙を卷いて仰向いた。
「いや行きません、今日はごた〳〵してゐましたから」
「君、今日の靖獻遺言は大層面白かつた、中野先生は甘いなあ」といつたが、壯太は何時ものやうに乗出して來ない。
「さうですか、僕はもう暇を貰つて國へ歸らうかと思ひます」と、何となく萎れた色が見える。
「何故歸るんです、え、君」と、今澤は少し驚いて問ひ詰めた。
「何でもありません、只國が戀しくなりましたから」
「だつて、君は此校でうんと勉强するつもりで來たんでせう」
「しかしもう厭になりました、學問も厭だし、この村の者も厭だし」
[Pg 213]今澤は腹の中で「變だな」と思ひ、相手の顏をジロ〴〵見て、「君、寄宿舎の者あ、賄に不平を云つてるさうだな、何かあるんですか」
「さあ、何だか知らんが、今に騷動があるでせう」
「賄の中では喜公が惡まれとるさうだが、どうしたんでせう、あれもいゝ人だがなあ………昨夕も遲くこの家へ來てゐた」
「さうですか、どんな話をしてゐました」と、壯太は厭に聲を低くして、目を据ゑた。
「どんな話だか僕あ寢つちまつたから知りません」
「ふゝん」と云つて、壯太は考へてゐたが、暫くして「ぢや貴下はよく勉强なさい、當分お目に掛れんかも知れません」と云つて、お辭義をして机の前を離れた。
娘は門で鎌を磨いでゐる。壯太は屈んで娘と何か話をしてゐたが、やがて娘を小突いて、怒つた顏をしてスタ〳〵と行つてしまつた。今澤は驚き呆れた。そして書きさしの手紙に向ひ、村の靜かで景色も佳いこと、住民の善良なること、學課の面白い[Pg 214]ことなどを美文調で書いて、それを封じながら、壯太の事を考へた。
この家には夜になつて、よく村の百姓や寄宿舎の賄方の連中が遊びに來る。しかし世間話ばかりで、別に變つたこともない。壯太も宿の老爺の好きな狐鮨を買つて來て、父娘二人に自分の行末の大望を話しなどして歸るばかりだ。壯太はよく「私だけは他國の者だから、どうも仲間と折合が惡い」と零してゐたが、逹公は度々宿の娘に向つて、「今澤さんなんか、遠方から來てゐなさるんだから、不自由なことが多からう、氣をつけてお上げよ、他國の人は大事にせねばならん」と注意する程だから、他鄉の者を虐待する譯はない。
で、彼れは暫く疑つて見たが、別に壯太と深い關係があるのでもないから、間もなく忘れてしまひ、聲を出して靖獻遺言の復習をした。折々木の倒れる音、木樵の唄が聞える。復習が終つた頃、その唄も止み山は靜になり、春の日も山へ入つた。狹い谷間だから、日の隱れるのが早いが、容易に暗くはならぬ。淡い長閑な夕暮が長[Pg 215]く續く。今澤は閾に腰掛けて、朧ろに霞んだ逹公の藁屋を眺めてゐると、宿の娘が
「向ひに風呂が湧いたからお入りなさい」と知らせて來たので、何氣なく、
「壯太さんは播州へ歸るさうですね、どうしたのか知らん」
と聞くと、「私、存じません」と、卒氣ない返事をして、何時もの愛嬌を見せて吳れなかつた。しかし今澤は不思議にも感じない。そして丸裸になつて、小さい野菜畝を橫切り、野天の据風呂へ飛込んだ。半月が次第に明るくなるのを眺めて、柔かい湯に漬つてゐると、裏口から逹公が來て太い柴を無雜作にへし折つては燒べる。
「よく湧いてるから、もうよろしい」と云つても、
「大事な子に風でも引かせちやならん」と承知しない。今澤は燃え上る火の、逹公の頑丈な赤い顏を照らすのを見てゐたが、
「叔父さんは力が强いだらうな」
「强いとも、十人力だ、貴下位は手の表でさし上げらあ、村の若い者でも私にや降[Pg 216]參するからな」と大きな聲で云つて、ハツ〳〵と笑ひ、「學問する人は、何で皆弱いんだらう」
「そりや色んなことを考へるから、百姓してるやうにボンヤリしちや居れんもの」
と、今澤がマセた口を利くと、逹公はへゝんと嘲笑つて、
「百姓でもボンヤリしちや居りませんぜ、貴下なんかこそ今の間は本を讀んで逹の魚でも食べとりや、外に云分はないんだから結構だ、しかし貴下だつて今に心配事が出來て來る、屹度出來る、今歲十四におなりなさるんだから、卒業迄まだ後四年だ、この村にゐる間に、もうそろ〳〵慮見方が違つて來まさあ」
「そんな事あ本を讀んで知つてらあ」
「さうでないて、壯太なんかゞな、エラさうな口を利くと、私が云つて聞かせます。私の目にやお前逹の腹は見え透いてるつてね、逹公は明盲でも頭にちやんと四書五經が備つとるんですぜ、だから忰にもちつとばかりの學問をせんでも、親爺の敎へ[Pg 217]をよく聞け、それで澤山だと云ふんです、忰もあれで親爺の子だ、ヘマな眞似をして耻を搔くやうなことはしません」と、息子の自慢をして、獨りで笑つた。今澤はゆで鮹のやうになつて聞いてゐた。
その夜今澤が散步から歸ると、直ぐ寢床へ入り、朝まで夢一つ見ずに熟睡した。起きると例の如く畦傳ひに學校へ向つた。通學生の溜りへ入ると、既に四五人集つて賑やかに喋べつてゐたが、その一人が今澤を見ると、
「ぢや今澤君に聞いて見玉へ」といふ。
「何だい」と、今澤は駈けてその群へ入つて目をきよろ〳〵させた。
「君はまだ知らんのか、昨夕の賄方の喧嘩を、喜公が打たれたさうだぜ」
「え、喜公が誰れに」
「壯太といふ奴に」
「[Pg 218]本當か、何故だらう」
「だから君に聞くんさ、君は二人ともよく知つてるから」
今澤は驚いてよく聞くと、壯太は刃物を持つてゐたので、他の者は恐れて近づかず、喜公は思ふさま打たれた。そして壯太は昨夕から寄宿舎にゐないさうだ。
この噂は放課時間每に話題に上り、逹公が賄部屋で怒鳴つてる樣を報吿する者もあれば、その原因を硏究する者もある。學校は一日これで賑はつた。
學課が終ると、今澤は例の木蔭で休んで、書物を讀み草の香ひに浸つて、最早喧嘩の原因などを念頭に置なかつた。
その晚、彼れは近頃覺えた詩吟をしながら、谷川に沿うて散步した。宿の娘は鍬を洗つてゐる。側には二三の百姓が脚胖と草鞋を投げ出して足を洗つてゐる。茲でも高い聲で喧嘩の噂だ。
[Pg 219]「喜公も意氣地のない奴だのう」「播州者なんかに毆られるなんて村の名折れだ」「彼奴がまだ村にゐようなら袋叩きにしてやるになあ」と、口々に憤慨してゐる。
「何でも壯太の野郞が惡いに違いない、ちつとばかりの學問を鼻にかけて、漢語なんか使やがつて、平生から小憎らしい奴だつた」
「全體彼奴生意氣だ、新田の辰の娘に艶書をつけたといふぜ、女を口說くに小六ケ敷艶書にも及ぶまい」
「他國の奴に女を荒らされて溜るもんか」と皆んなで笑つた。宿の娘は鍬を擔いで急いで歸つた。入違つて逹公が佛頂面をして來たが、今澤が蹲んで道を防いでるので、
「そうら、退いた〳〵」と邪慳に云つて、彼れを突飛ばすやうにして、馬をザブリと水へ入れた。水は四邊に飛びかゝる。
「逹さん、壯太は行方知れずか」
[Pg 220]「何であんな無茶な事をしたんだらう」と、左右より問ひかけた。
「播州の奴あ畜生だ、穩順さうな面してやがつて」と、逹公は凄い顏をして、手綱で馬を打つた。
今澤は目を丸くして恐々見てゐたが、やがて逃げるやうに川下へ下つた。水は月光を乗せて耳語くやうに足下を流れてゐる。彼れは生れて初めて他鄉孤獨の感を覺えた。
[Pg 221]
空想家
(一)
單調な自分の生涯でも、三十五年の今から過去を振返つて見ると、知らぬ間に幾多の波瀾を經過してゐる。何故あんな事を考へてゐたのだらうと、昔の幼稚な自分を冷笑したくなるが、それと共に五年前十年前が懷かしく、あゝ今一度あんな氣になりたいなどと思はぬでもない。
自分は學校を卒業する十年前、雜多の空想や希望が取留もなく湧き上り、一人で悅しかつたり氣遣かはしかつたりした時、山吹町の素人宿に下宿することゝなつた。普通の下宿屋は騷々しいから、靜かな家へ移つて、うんと勉强して卒業後社會へ出る準備をしやうぢやないかと、最も親しい細野徹と相談して、漸く捜し當てたのが五十ばかりの寡婦と十四五の男の子と二人切りの或家。別に生活に困るのではない[Pg 222]が、小人數で淋しくはあり、家に不用の室があるのだから、温和い人になら貸してもいゝといふのを、或所から聞込み、早速談判して承諾を得たのである。長い間手を入れぬと見え、家は隨分古びてゐるが、狹いながらも、庭もあり、殊に自分共の借りた二階からは早稻田の森まで一面に見渡される。
で、二人は引越した時、籖引で席を定め、細野は西自分は東に机を据え、勉强時間も定めて、その間决して無駄話をしないことにした。互に負けぬやうに讀んでは考へ、考へては讀み、時々小聲で話をする外、常に靜かに机に向つてゐるので女主人は非常に感心し、自分共に向つて「貴下方は屹度御出世なさる」と褒めそやし、暇に任かせて、五月蠅い位何かの世話を燒いて吳れる。その上來る人來る人に、自分等の噂を持出す。それも婆さんの癖として、つまらぬことまで仰山に吹聽するので、二階で聞いてゐても可笑しくなる。「ほんとに今時珍らしい書生さんですよ、お酒を召上るぢやなし、寄席を聞きに一度入らつしやるぢやなし、」と褒められるのは當前[Pg 223]だが、時とすると「御飯だつてちよんびりしか召上らない」と、さも感心したらしく褒めることがある。
或日細野がまだ學校から歸らず、自分一人東の窓を開けて初秋の澄んだ空を仰ぎ、ぼんやりしてゐると、階下で女主人が來客に向つて、べちや〳〵お喋舌をしては笑つてるのが聞える。相變らず自分共の自慢をもしてゐるらしい。暫くしてその話聲の消えると、窓の下の垣根に若い女が現はれ、自分を見上げたが、急に驚いて俯首いて、すた〳〵と通り過ぎた。色の白い細そりした女で、髮は束髮、葡萄色の羽織を着てゐた。自分は目に映つて直ぐ消えたこの姿を思ひ浮べ、懷しくて溜らない氣がする。今女主人と話してた女に違ひないが、何處の者だらうと、得意の空想を逞うして、甞て或處で出會ひ、互ひに戀を打明けやうとする間に何かに遮られ、別れ別れになつた女ではないかなどと、考へてゐた。すると向ひの家の庭から椽側へ上り、障子を開けて内へ入る女が見える。後姿だけだが、束髮で葡萄色の羽織、首筋[Pg 224]が滑らかで白い。自分は意外に驚いたが、譯なく悅しかつた。「隣家には宮内省の役人が住んでゐて、別嬪の娘さんがゐる」と、女主人が問はず語りをしたことがあつて、自分は別に氣にも留めなかつたが、あの女を云つたのだ。側にゐながら自分は一度も見たことがなかつたが、細野はこの窓側に居るんだから、屹度見てゐたに違ひない。
で、窓を離れずに、それからそれと考へてゐる間、細野が例の如く、長い髮をふは〳〵させ、沈んだ顏をして、白木綿の風呂敷包を抱いて歸つて來た。
「郊外がよくなつたね、僕は『經濟』を休んで、一時間落合の方を散步した」
と、細野は包を開けて、書物や筆記帳を取出し、キチンと机の上に重ねた。
「さうか、これから又戶山の原で讀書が出來るね」といつて、態と平氣で、「君は向ひの娘を見たか」と問ふた。
「むん、何だか知らんが、若い女を一二度見たよ」と云つて細野は微笑した。頰も[Pg 225]少し紅味を帶びる。
「美人だね」
「品のある女だ」
これだけの話で、自分は元の机へ戾り、近世史を讀みかけたが、頻りに心が動搖して頁が墓取らない。
そも〳〵自分が細野と親しくなつたのはこの時から一年前の秋である。それ迄は陰氣な因循な、何となく齒切れの惡い男とのみ思ひ、打解けて話をすることもなかつた。所が或る溫かき小春日に自分が落合の方へ散步に行くと、土手の木蔭に背を靜かな秋の日に曝らして一心に讀書してる男がある。よく見ると細野だ。好奇心から近いて會釋し、
「何を讀んでるんです」
と、小形の書物をのぞくと、カツセル版の「ウエルテルの悲哀」である。
[Pg 226]「小說ですか」と再び問ふた。
「まあそんな者です」と、細野は書物を閉ぢて懷に入れたが目が潤むでゐる。自分は不思議に感じて、
「それは哀れな小說ですか」と聞くと、
「え、主人公が失戀で苦悶して自殺するんです」
「君はそんな者に同感しますか」
細野は躊躇して、「君はどうです」と問返した。
「僕は無論同感します、君は」
「僕も同じ事です」
「そうですか、僕は君が戀に泣く人とは知らなかつた。」と、自分はステツキで櫻の枝を叩きながら、「どうです一緒に其の邊を散步しませんか」と促すと、細野は立上つて衣服の埃を拂ひ、土手を駈け下りた。
[Pg 227]で、二人は寄りつ離れつ、鐵道線路を橫切つて田圃道を步み、小說の話から戀の議論をした。その間にも細野は目を留め耳を澄まして、しんみりした周圍の景色を味つてゐるやうである。既に初雪の降つたといふ富士山は白く正面に聳え、天は深く澄んで、雲もなく風もなく、只兵士の射的のみが、物凄く空氣を騷がせてゐる。
「僕は每日この界隈を散步します」と、細野は上目で空を仰ぎ、「僕は靑い空を見たり、白い雲の漂うてるのを見ると、身體が地の上からふら〳〵飛んで行くやうな氣がするんです、自然という者は實に神々しい美しい者だ、それに何故人間ばかりは汚いことや殘酷なことをして下品な生活を送つてるんでせう、昨日もね風が吹いて寒かつたけれど、此處を散步して、木の葉がさら〳〵と雨の降るやうに落ちて、小鳥が哀れさうに鳴いてるのを聞いてると、魂がとろけるやうになりました。君はどうです、自然を見てそんな感じはしませんか。」
自分は左程深くは感じないのだが、細野の言葉に感心した所だから、强いて同意し[Pg 228]て、
「僕も君と同感です、つまり人間の慾望の中で最も神聖な者は、自然を愛する心と戀愛とでせう」
「自然に醉ひ戀に醉ひか」と、細野は銀の鈴でも鳴らすやうな聲で、朗吟して深く自から感じてゐる。自分は初めて彼れを面白い男だと思つた。
で、これ迄の經歷を聞くと、彼れは作州津山の生れ、縣の中學を卒業すると直ちに上京したが、學資の支給が充分でないので、二三年で身に藝をつけ、自活した上兩親の世話までせねばならぬ。その爲に止むなく私立學校の政治科へ入學したものゝ、元來政治や法律は好ましくない。だから學科を勉强する傍、詩や小說を讀んで慰めてゐるので、時々は自身でも新體詩などを作るとのこと。
「先日も天使の詩を作つたんです、靑年男女の純潔な戀物語を天の使が白雲の上で聞いてゐて、永久に戀が醒めぬやうに神泉の水を注ぎかけてやる所を歌つたのです、[Pg 229]近日君に見せませう、批評して下さい」
「そりや面白い、是非見せて吳れ玉へ、二三日間に訪問しますから」
自分は同級の友人の多くが、寄ると觸ると徒らに悲歌慷慨して天下國家を談じ、或は淫猥な話に耽るのを快く思はず、殊に酒を呑んで下女に戯れたり、遊廓に出入するのを苦々しく感じ、卑俗下劣の徒と卑しみ、自分と趣味の同じい學友のないのを遺憾に思つてゐた所だから、細野に會つたのを無上に喜び、翌日學校の歸りに、彼れの下宿へ立寄つた。四疊半で床もない部屋だが、小さつぱりと取片付けてある。
「よく來ましたね」と、情愛のある聲で迎へられると、もう懷かしくて悅しくて溜らなかつた。それから奇麗な文字に滿ちた天使の詩の朗吟を聞き、自分は批評どころではなく、一字一句悉く感動させられ、自分もこんな詩を作つて見たいと、心底から細野の才が羨ましくなつた。情死の是非、自殺論、精神の自由說、社會の俗趣味の攻擊、それからそれと話の絕ゆる暇なく、遂に晚飯を共にして、夜の十時頃[Pg 230]迄腰を据えた。
かくて二人は無二の親友となつたのである。
(二)
「お神さん、今來てた女は向ひの娘ですか」と、晚餐の膳に向つて聞くと、女主人は指の先きで長火鉢の緣をこすりこすり、微笑して、
「貴下御覽なすつて」
「え、一寸見ました」
「いゝ女でせう、先づこの近所では天神町の煙草屋の娘か、隣の娘かが評判の女ですけれど、どうして角力になる者ですか、第一品が違ひまさあね、それに堤のお多津さんは、學問が大變お出來なさるし、生花であれ裁縫であれ、何一つ女の藝に缺けたものはないので御座いますよ、もう十九ですから彼方からも此方からも、お嫁に吳れろつて、やい〳〵云つて來るさうですがね、中々親御が確かり者だから、お[Pg 231]いそれとは行かないんで御座いますよ、それにもつと藝を仕込んで、何處へ出しても耻かしくないものにしたいつてね」と、女主人は一息に喋舌つて、湯沸しをチヤブ臺に置き、「貴下方も堤さんへ御遊びに被入いましな、今は旦那が御用で西京の方へ行らしつて、無人で淋しがつてゐられるんだから、お話相手でも出來ると、屹度お喜びなさいますよ、些とも氣の置けぬ氣持のいゝ家でね、私共もよく伺つては長話をするんで御座いますよ、昨日も奧さんに貴下方のお話を致しますと、大變褒めて入つしやつたんですわ」
自分は平生女主人が物事を仰山に云ふのを苦々しく思つてゐたが、隣家の話については少しも疑を挿まなかつた。それに自分等の事をも隣りの家族に向つて大袈裟に吹聽したことゝ察せられるが、それが少しも厭な氣がせぬのみか、却て悅しい氣がした。
しかし、自分はよく知らぬ家へ推かけて行く勇氣のあらう筈なく、只時々窓から隣[Pg 232]りの庭や緣側を見下し、その姿が現はれるかと空賴みするのみであつた。隣りは平屋建てゞ左程大きくはないが、古色を帶びて由緒ありげに見え、庭が可成りに廣く秋草が垣根に茂り片隅には小さな畠がある。自分はその家庭をも連想し、氣品のある母と、古風の父と、かの素直な娘とが穩かな生活をしてゐる樣を思ひ浮べ、源氏物語などにある床しい住居を目に見てゐるやうに感じた。夜になり、冴えた月がその草の生へた屋根を照らし、庭の草叢では蟲が頻りに鳴き出すと、向ひの家が夢の世界になる。自分は憧憬の目を以てそれを眺め、果てのない空想の浮び、悅しい悲みが胸に滿ちる。
こんな風で二三日を送つたが、あの女が自分の念頭を去らぬことは、少しも細野に語らない。細野は又卒業後の責任を感じながら、絕えず新體詩に心を取られ、今も『知られぬ戀』などを作つてゐる。それで晚食後散步しながら、學問上の議論や卒業後の生活方法について互ひに語り合ふ時も、何時の間にか肝心の話が外れて、人生[Pg 233]の問題や戀の如何が話題に上り、熱心に感想を述べ意見を闘はす。細野は屡々ダンテの悲慘なる失戀に同情を寄せて說き、「人生は要するに悲慘だ」とお定りの結論をする。ロメオの悲戀、ハムレツトの煩悶、細野はそれ等の物語を凉しい聲で詩的の調子を以て話し、自分は眞面目に聞いて、間接に其等の主人公に同感し、自分も彼等と同じく、浮世の哀れを身にひし〳〵と覺えてゐる一人だと信じてゐた。それと共にその哀れを解しない我々の仲間は俗物だとの自負心も多少ないでもなかつた。
(三)
舊曆八月の十五夜、これから散步に出やうとしてる所へ女主人が二階の入口へ首を出して、
「ね槇田さん、今お隣りからお使ひが來ましてね、今夜お月見をするから、太郞(女主人の子)と、それから貴下方にも是非入らしつて下さいと云ふのですよ、行つて御覽なさい、私一人でお留守番しますから」と勸めた。
[Pg 234]自分は飛立つやうであつたが、態と躊躇の體で、
「さうですね、細野君は行くかい」
「でも知らん家へ行くのは變だね」
「だつて太郞もまゐるんですから、いゝぢやありませんか」
と、女主人は頻りに促がす。
「ぢや行つて見るかな、君は」と聞くと細野も同意した。
で、二人は太郞について、裏木戶から庭を橫切つた。太郞は緣側に立つて、
「叔母さん來ましたよ、皆んなを連れて」と大聲で呼んだ。すると四十位の小柄な女と太郞と同じ年輩の顏の靑い男の子が奧から出て來て、
「よく入らしつた、さあお上んなさい」と、頻りに後退する自分等を、引張上げるやうにして座敷へ通した。
自分は窮屈に畏まつて只「はい〳〵」と受答へをしてゐたが、妻君は愛想よく、快[Pg 235]活な調子で、絕間なくいろんな世間話を持出すので、自分も何時の間にか釣込まれて、例の娘が枝豆や白玉を盆に載せて運んで來た時は、最早膝も崩れてゐた。
「私は面倒臭い世態話は大嫌ひな性分で御座いましてね、若い方と一緖になつて、罪のないお話しをするのが一番面白いんで御座いますよ、ですからどうか度々入らつして下さいましな、此頃は主人が留守だし、小人數で本當に淋しくてね、退屈で〳〵困つてるので御座いますよ」と白玉をコツプに盛つて、砂糖をぶつかけて吳れた。妻君は痩せて目の下に小皺があるが、顏立は娘によく似てゐる。娘は岐阜提灯を點火して軒に釣るし、母の側に座つた。太郞は緣側で白玉を頰張りながら、靑白い子息と、蟲籠を弄んでゐる。
「今夜はいゝお月樣だ」と、妻君は仰視いて空を見上げた。
「私はこんな晚には哀れな音樂が聞きたくなります」と細野が云つた。
「音樂がお好きなの、では此女がもつと上手だとお聞かせ申すんですけれど」
[Pg 236]「琴がお上手だつて云ふぢやありませんか、聞せて頂くといゝんだが」
「だつて暫らくお稽古を止めてますから」と娘は低い聲で云つて、澄してゐる。細野も自分も强いて求むる勇氣はない。
「細野君は新體詩の朗讀が上手です、全く音樂的です」と自分は座興を增すやうにと差出口を聞いた。
「おやさう、是非聞せて下さいましな」と、妻君が促すので、細野は初め一寸辭退したが、遂に中音で「天使の歌」を吟じた。こんな場合、細野の性質として別に氣取りもせず羞耻もせぬから、如何にも聲が自然で歌ひ振が面白かつた。妻君は口を極めて褒め、娘は莞爾して「いゝ聲だわねえ」と母を見て云つた。
「槇田さんも何か隱し藝がおありなさるでせう」と、妻君が自分の方を見る。
「いえ僕は駄目です、詩吟位だから」と自分は氣乗りもしなかつたが、あまりに攻められるので、詮方なく簡短に漢詩を怒鳴つたが、あまり感心はされなかつたらし[Pg 237]い。それから太郞の軍歌があつて、互ひに打解けて來ると、妻君はトランプでもと云ひ出したが、自分等は後日を期して宿へ歸つた。
これから堤の家族と懇意になり、二三度訪ねても行き、その度每に妻君は機嫌よく迎へて吳れるが、娘は何時も口數が少く、ツンとした態度を執つてゐる。自分は東京の若い女に全く知邊のないためか、これに對しては一種の畏れを感じて居り、殊に堤の娘は神々しいやうで、あまり馴れ〳〵しく言葉を掛けると、無禮を咎められはせぬかと思つた。で、たまたま「欝陶しいお天氣ですこと」とか、「どちらへ御散步に行つしやつたの」とか、何でもない挨拶をされた丈で、非常に愉快に感じてゐた。
「何故あの女はあゝ冷なんだらう」と細野に問ふと、細野は、
「肉感が乏しいからだらう、純潔な女は冷かに見えるんだ、しかしあれで戀を感じやうなら、顏に生命が現はれて溫味を帶びて來るよ」と鹿爪らしく說く。
「さうかも知れん、しかしあの女はまだ戀を感じたことがないんだらうか。」
[Pg 238]「無いとも、戀した目と戀しない目とは、ちやんと區別がある。」
「さうかね」と、自分は一も二もなく同意して、只その戀する目を見たいと思つた。しかし自分がこの二階で、軟かい空想に包まれながら、矢鱈に勉强する平和の時代は長くは續かなかつたのである。
(四)
或日同鄉の友人葛原勇吉が訪ねて來て、盛んにこの宿を褒め、「僕も少し勉强したいから、靜かな家へ移りたい、此家には置いて吳れんだらうか」と云つたが、自分はこの男の騷々しいのを嫌つてゐたから、「外に部屋もないやうだし、人出がないから大勢を留める譯に行かんだらう」と諦めさせた。すると葛原は階下へ下りて、二三十分間女主人と話して來たが、どう說きつけたのか、太郞の勉强部屋を借ることに定めたさうだ。口先きの味い爲、女主人も否と云へなかつたのであらう。
案の通りこの男が來てからは、一家の空氣が異つてしまう、自分と細野とは三度の[Pg 239]食事の時、女主人と話をするのみで、箸を置くと直樣二階へ上るのだが、葛原は煙草を吸うて一時間も話し込み、時々は太郞の將來についても親切さうに相談對手になつてやる。根が我々とは違ひ、快活で調子のいゝ洒落の巧い男だから、二三日の中に、すつかり女主人の氣に入つた。自分等は勉强家で身持がよいと褒められても好かれはしない。葛原は午寢をしやうと、夜深しをしやうと、人間が面白くて、淋しい家を賑かにするのだから好かれない譯がない。土曜日の晚には屹度一本つけさせ、微醉で落語の眞似をしたり、色話しをする。細野の夕陽美の講釋や、新體詩の說明よりは、どんなに面白く、女主人の耳に響いたであらう。或晚も葛原は自分等を前に置いて一本平げて、更に一合だけを强請り、窪んだ眼の緣を紅くし、尖つた頤を突出し、
「だつてお母さん、僕なんか酒でも呑まなけりやつまらないさ、こんな御面相で、情婦が一人出來るんじやなしさ。」
[Pg 240]「今からお酒なんか召上るから、尙出來ないんぢやありませんか」
「しかし槇田君だつて細野君だつて、まだ戀人といふ奴が出來んのは不思議だ、磨き上げれば皆色男たる風采を持つてるんだがね、我黨振はざる久しだ、ハツヽヽヽ」
「どうして槇田さんなぞは、卒業さへなされば、どんないゝ奧樣でもお好み次第ですわねえ、堤のお孃さんだつて、槇田さん〳〵つて大騷ぎなんだから」と、女主人はさも眞實らしく云ふ。自分は「あゝ又婆さんが捏造を初めたな」と思つたが、多少嬉しくも感ぜられた。
「本當かい槇田君」と、葛原は目を丸くして眞顏で聞いた。
「そんな馬鹿なことがあるものか」と、自分は苦笑した。
「なにね、槇田さんは御存知なくつても、向うでは屹度思つて居らつしやるに違ひない」と老婆は意地惡く確めた。
「眞實でも虛僞でも、そんな噂が立つだけでも名譽だ、一つ奢り玉へ、何ならこれ[Pg 241]一本に負けて置くから」と瓶子を振つた。
「下らんことを云つてらあ」と、自分は取合はずに二階へ上つた。さら〳〵と雨を含んだ風が窓に當り、蟲の音が絕間なく聞こえ、折々は葛原の高い笑聲も聞える。暫くして細野が側へ來て、「今女主人の云つた事は本當かい、君がゐなくなつてから、いろんな皮肉を云つてたよ」と、低い聲で、何だか氣遣はしさうに云つたが、彼れの胸も鼓動してるやうだ。
「馬鹿な、そんな事のある筈がないぢやないか、滅多にあの家へ行きやしないしさ、只老婆が何でもないことを意味ありげに云ひたがるんだ」
「でも全く種のないことも云はないだらう」
「屹度何だよ、あの娘が何かの拍子で僕の事を聞いたのだらう、それが老婆の口へ上ると、あんなに誇張されてしまうんだから厭になつちまう」
「さうかねえ」と、細野は安心した風だ。
[Pg 242]しかし自分は、女主人の言葉に、或は多少の事實が含まれてはゐないかとも思ひ、又强いてさう思ふやうにした。で、萬一さうであつたらどうしやう、如何なる障礙を破つても、戀を成遂げるの外はない。葛原に揶揄されやうとも老婆に嘲けられやうとも關うものか、自分は彼の女と靜かな所に清貧なる生涯を送ればそれで足つてゐる。彼の女とても世俗の榮華を追求する風はないから、自分の理想に同意するに違ひない。
一日二日こんな取留めのない空想に頭を惱してゐたが、敢て彼の女に會つて心中を確めやうともしない。葛原は堤の妻君とも懇意になり、太郞を連れて頻りに出入すれど、自分や細野は滅多に行く機會がない。そして自分は葛原が隣家と親しくなり、妻君にもチヤホヤされるのが不快でならなかつた。自分の渇仰する聖殿を泥足で汚される氣がした。
或晚葛原が、「隣家では今夜大將が留守だから、トランプを取ると云つて來たよ、一[Pg 243]緖に行かうぢやないか」と自分等に勸めた。
「トランプは知らんもの」
「知らなくたつていゝさ、人が少いと面白くないから、是非付合つて吳れ玉へ、君等もあまり勉强に凝ると毒だよ、少しは呑氣に遊ぶ方がいゝよ」
「ぢや行つて見やう」
と、太郞と共に凡て四人で隣家へ推かけた。
「叔母さん、皆んな引張つて來ましたよ」と、葛原はずんずん座敷へ上つた。彼れは宿の女主人をお母さんと呼び、堤の妻君を叔母さんと云ひ、娘をお多津さんと呼ぶのだ。
「お多津さん、今日は負けたものが奢るんですよ」
「えゝ〳〵、よう御座んすとも、どうせ負けやしないから」と、娘は違ひ棚から札を取出し、一同は輪をなした。で、葛原が札を切つて順々に撒いて行つたが、その[Pg 244]手際は甘いものだ。自分や細野は只敎はつた通り機械的にやつてるのみで別に興味もない。娘は夢中になつて、身體を搖ぶり札を持つた手をもぢ〴〵させて勝敗を氣遣つてゐる。葛原は叫んだり笑つたり、頭を搔いたり舌を出したり、一人で騷いで座を賑かにする。自分は折々うつとりして、この家庭の行末を思ひ、葛原のやうな卑俗な男が出入して、穩かな床しい生活を搔亂し、下等な趣味を注ぎ込み、一家が堕落してしまうことを氣遣ひ、「何を考へて入つしやるの、貴下の番ぢやありませんか」と、側の妻君から叱られる位であつた。
遂に細野と自分とが劣敗者と定まり、蕎麥を奢らされた。葛原は萬歲を唱へ、娘はほつと息を吐き、「あゝよかつた」と莞爾する。自分等は如何にもつまらない。それで今一度と娘が云ひ出して外の者は同意したが、自分等二人は辭退して歸つた。歸つて二階の窓を開けて、星影を仰いでゐると、堤の座敷の燈火が微かに見える。まだトランプをやつてるのであらう。
[Pg 245]「困るね、葛原が侵入しては、此家だつて、あの男が來てから、すつかり婆さんの態度が違つてしまつた。が、それはまあいゝとして、堤の家へ行つちや困るよ、家の婆さんなんか、どうせ趣味が低いんだから、葛原に感化されるのも當然だがね、隣りの家族は敎育もあり品位も備へてるのに、何故葛原を勸迎するんだらう」と、自分が細野に話しかけると、
「さうだね」と細野は首を傾げ、「僕は隣りの母子が决して葛原を喜んでやしないと思ふ、擧動や顏色でさう察しられるぢやないか、殊に娘は胸に何かの苦みがあつて堪らないから、それでトランプや馬鹿話で忘れやうとしてるんだ、あの目は確かに美くしい者や淸い戀を求めてるといふ風だ」と、上目で空を見て、落付いた聲で云つた。
自分は細野の說には少しの根據もないと思つたが、「さうかねえ」と云つて、別に反對もしなかつた。平生自分は己れの希望や想像について、多少の疑ひを有してゐた[Pg 246]が、細野は决してそんな事なく、何事についても一種の意見を有してゐて、自分が聞いてすら、幼稚な空想だと思ふ事を確信してゐた。
で、兎に角自分は細野の如く樂觀してゐられぬ。堤一家のために、葛原を遠ける工夫を講ぜぬばならぬと、腹の中で藻搔いてゐた。所がその翌晚、葛原が女主人と太郞とを連れて寄席へ行つた後、
「御免なさい、叔母さんはお留守?」
と勝手の方で呼ぶ聲がする。自分は留守番を仰せつかつてゐるから、早速駈け下りて見ると、それがお多津である。萩餅を持つて來て吳れたのだ。
「まあお上んなさい、皆留守だけれど」
「葛原さんも」
「え僕と細野君だけです、」
「昨夕お負けなすつて、今夜又お留守番ではつまらないわねえ」と、目に笑ひを含[Pg 247]んで馴れ〳〵しい態度。
「僕は寄席は嫌ひだから行きたくはないんです、トランプだつて些とも面白くはないし、負けたつて口惜しくはありません」といつたが、今夜は珍らしくお多津の態度が打解け易いやうであり、又他人を交へずに差向ひで話す機會は又と得られぬのであるから、思ひ切つて、
「僕は是非貴女にお話したいことがあるんですが、此方へ上つて聞いて吳れませんか」と、氣を靜めて、言葉も强いて穩かにした。
「何のお話し」と、例の冷かな調子で云つて、勝手に板の間に腰を下し、橫向きに自分の顏を見詰めた。
「何と云つて別に何でもないが」とドキマギした揚句、「僕は貴女初め、家族の方を尊敬してるんです、お宅へ行くと優雅なしつとりした空氣が滿ちてるやうに感ぜられるんです。貴女は幸福な家庭に生れて純白な生涯を送るんだから」と、又云ひ淀[Pg 248]んだ。
「あらそんなお話し、槇田さんも隨分可笑しな方ね」と、お多津は半ば身を起した。
「だから貴女は天から授かつた純白な性質を傷けんやうにしなくちやならん、下品な趣味や野卑な談話は貴女には適しないんです。」
「槇田さんは六ケ敷ことばかり仰有るのね、お說敎でも聞てるやうだわ」と笑つて、
「下品な趣味といふのは何ですか、トランプを取ること」
「さうでもないんだが、兎に角葛原なんかに感化されちや駄目ですよ」
「え、葛原さんがどうかしたの」
「あの男は面白い人間だけれど、どうも趣味が下品だからいかん、貴女もそのつもりで御交際なさるがいゝ」
「私趣味が下品だつていゝのよ」と、例のツンとして立上つた。
「僕は貴女を尊敬してるから云つたのです、惡い意味に取らないやうにして下さい」
[Pg 249]と、自分は狼狽へた氣味。
「つまり葛原さんとお交際するなと仰有るんでせう、貴下は何故お友逹を除物になさるの、葛原さんは被入る度に、貴下方をお褒めなさるのに、貴下は葛原さんの惡口なんか云つて、」
「さうぢやないさ、しかし貴下はまだ御存知ないだらうが、葛原はこれ迄ズボラで評判の惡い男だから、あんな男を家庭へ侵入さすと信用に關すると思つて云つたのです、僕は貴女に初めてお目に掛つた時から、貴女を品性の傑れた方と思つて、一生天使のやうな生涯を送るやうに願つてゐます。」
お多津は澄した顏で不審げに自分の顏を見て、「私、尊敬されたり、天使とかになりたくはありませんわ、貴下こそ餘程妙ね……お話しつてそれつ切り」と云つて、會釋して歸つてしまつた。自分は失望して二階へ上ると、細野が、
「君は何を話してたんだ」
[Pg 250]「向ひの娘が來たから葛原の人と爲りを聞かせたけれど、薩張り分らない、矢張平凡な女だね」
「僕はさう思はない」と、細野は彼の女を月世界から降つて來た女のやうに思つてゐるらしい。自分は葛原に大事の寶を踏碎かれ、又理想の女から愛相を盡された如く感じ、急にこの宿が厭になり、轉居しやうと决心し、細野に同意を求めたが、細野は面倒臭いからといふ口實で賛成しない。
で、その翌日から學校の歸途自分一人で宿を捜し廻り、二三日の間に、漸く氣に向いた所を見つけた。いよ〳〵轉宅と定つた日に、葛原は二階へ來て、
「諦めて逃げ出すんか」と、皮肉を云ひ、「君はひどいな、レデイに向つて僕の事を趣味の低い奴だと云つたさうだが」
「何さうぢやないよ」と、自分は少し紅くなつて辯解しやうとすると、葛原は無邪氣に口を開けて笑ひ、
[Pg 251]「それはどうでもいゝさ、しかし、君、女に向つて趣味の高下を論ずるなんか、野暮の極だぜ、レデーでもエンゼルでもお薩を喜んで召上るんだもの」
(五)
自分の轉居先きは雜司ケ谷の百姓家、藁葺の軒の傾むき、壁は骨を出し、疊は擦りむけて足に引かゝる程だが、前に大根畑があり四方は楢や樅が取圍み、外の人家とかけ離れて、荒寺のやうである。下町のさる富豪の所有で、やがて地代の上るのを待ち賣はなす筈だが、それ迄番人として、獨身の作藏爺に無代で貸與してゐるのだ。自分はこの爺さんの白痴の如く逹人の如く、何となく世間離れしてゐるのを面白く感じ、一緖に引割飯を食ひ、時々は大根の蟲取りの手傳をもしてやり、無論學問は怠らなかつた。で、山吹町へは全く足を向けぬ。細野は屡々訪ねて來ては、楢林の下に落葉を敷いて、暮れ行く秋を眺めて、夢のやうな話に耽つてゐた。しかし自分は堤の娘の事は成べく口に出さぬやうにし、細野も語らなかつた。
[Pg 252]しかし細野も間もなく山吹町の宿を出て、戶塚町の植木屋の一室を借り、卒業迄其處で暮らしたのである。
卒業後は二人とも一日も早く職業を求めねばならぬ。殊に細野は鄉里の家族を補助する義務さへあつて、自分よりも糊口の方法を焦らねばならぬのだ。しかるに彼れは試驗が濟むと、一生涯の重荷を卸した氣で、衣服や敎課書を賣拂つて、相州葉山へ旅行した。そして或日自分が先輩を訪問して職業の周旋を依賴し、汗と埃にまみれて歸ると、彼れからの手紙が來てゐた。
「…………僕は今相模灣を見下した小高い寺に寄寓し、菜食に滿足し、肉慾を忘れて靈の生活をしてゐる。朝は早く起きて、まだ人影もなく、海も神秘の水氣に閉籠められてゐる頃、明神崎へ行つて、岩蔭に踞して作詩の工夫を凝らし、晝は寺の廣間に寢ころんで、海風に耳の穴まで撫でられて、キーツやヲルヅヲルスの詩を朗讀してゐる。僧侶の讀經や筧の水音は、柔かに僕の膓まで染み込む。今も夕暮の磯傳[Pg 253]ひから歸り、苔に蔽はれた石段を上つてゐると、鐘の音が永遠の響きを傳へ、僕は宇宙の神靈に觸れた如く感じ、希悅の淚が出た。戀に絕望し世に倦んだ古の人が、寺院に身を遁れたのは、さもあるべき事と思はれる。……」
と記し、最後に現在の我が心だとして、キーツのソンネツト"Oh! How I love, on a fair summer's eve"の全體を寫し添へた。
彼れは殆んど生活の方針などを念頭に置いてゐないらしい。歸京してからでも敢て齷齪として職を漁るでもなく、月給取となり一家を構へるよりも、秋が來て郊外散步の出來る時を待つてるやうだ。超然としたその態度、純潔なその精神、自分は細野を尊敬せずにはゐられなかつた。
幸にして自分も細野も會社員の口に有ついたが、自分は大阪、細野は東京、別れ〳〵に勤めねばならぬ。で、自分が出立の二三日前、二人きりで離別の會を催し、自分は將來活動の計畵を詳しく語り、細野は理想、神靈、淸き戀などについて美は[Pg 254]しい夢を語つた。
それから四五年、細野に會ふ機會はなかつた。初めの間は書信の往復が頻繁であつたが、月を重ぬるにつれ次第に減じ、後には殆んど音信不通、たまの手紙も極めて簡短で、君も無事にや、僕も無事、殘暑酷しく候位に過ぎぬ。
この間に自分の生活狀態は餘程變つた。酒も飮む、遊廓へも行く、上役の目顏を注視するやうにもなつた。月日の徒らに早く過ぎて、豫想の一つ〳〵外れて行くことも知つた。しかしまだ若い血潮が乾れてはゐない。詩を讀んで泣き、會社の冷遇を憤り、或は戀人と共に淵川に身を投ずるの勇氣がないでもなく、從つて多少の波瀾が一身上に湧いて起こつたが其等は他日を期して茲には語らぬ。
さて或年の夏、辛うじて一週間の休暇を得て上京した。久振りであり、訪ふべき先輩や友人も多いけれど、先づ遇つて見たきは細野徹。長らく消息に接しなかつたのだが、どんなに變つてるだらうと、大手町の會社を訪ねると、先頃退社したとかで[Pg 255]宿所も分らぬ。で、二三軒聞き廻つて、漸く移轉先を突留め、早速車で駆けつけたのだが品川御殿山の門構へ嚴しい家。此處で何をしてゐるのだらうと訝りながら案内を乞ふと、玄關に出て來たのが細野である。「ヤア」と自分は目を見張つて、彼れの痩せて靑く鼻ばかり尖つた顏を見てゐたが、彼れも驚いて「君も非常に異つたね、會社員らしくなつた」と、兎に角直ぐ傍の書生部屋へ案内した。
「君は會社を止したさうだね、今は何をしてるんだ」と、自分は座るや否や聞くと、
「この通り書生部屋にごろ〳〵してる、しかし突然君に會つたので、何だか外の世界へ來てる氣がするよ」と、自分をのぞき込んで沈んだ聲で云ひ、目が潤んでゐる。
「僕も忙しいもんだから、つい手紙も怠つて濟まなかつた、その後君はどうしてゐた、何だか身體も惡さうぢやないか」
「うん少し弱つてるがね、大したこともあるまい」と、彼れは云ひさして、急に「氷でも取つて來やう」と出て行つた。後で自分は羽織を脫いで、扇子を激しく使ひ、[Pg 256]汗を乾かせながら、部屋の隅々を見るに、衣紋竿にかけた衣服も、小さい本箱も、茶道具まで四五年前の下宿屋時代とあまり變つてゐない。只海邊の水彩畵が一枚かかつてゐるのが目新しい位。本箱を開けて見ると、矢張キーツやシエレーの詩集があつて、前よりも手垢がついてゐる。机には二三帖の半紙を載せ、感想錄やうの者を書きかけてゐる。
「昨夜公園を散步して瞑想に耽る、美しき世界よとの感切にして、随喜の淚にむせんだ。夕暮の紅い雲が見る間に色を失ひ、一抹の靄が大崎の平地を籠め、あちこちの燈火は水中に浮動してゐるやうであつたが、やがて際立つて赤い一點の燈火が、大蛇の眼の如く光つて、靄を突破つて疾驅して、轟々と音のみ殘して姿を隱すと、靄は次第々々に消え失せ、月光は隈なく照り渡り、谷を隔てた彼方の欝蒼たる森林から、目の下の小さい藁小屋まで、風情ある詩の世界、床しき夢の里となつてしまつた。人間の聲もせぬ。風の音もせぬ。只停車場の向う、森の右端、白雲が渦卷い[Pg 257]てる遠き〳〵所に、電光が銳く光つてる計り。予は翼を得て光の中に漂ひたく思つた。冴えた月影は戀する男戀する女を乗せて、遠き光明の鄉へ送るに適してゐる。」
と書き、尙「月曰く」と題をつけ、何をか書かんとしてゐる。
自分はこれを讀んで、「まだこんなことを考へてるな、身體は非常に痩せ衰へてるが心は昔の通りだな」と思つてゐると、ドアが開いて、
「細野さん、蟲干をするんだから、一寸新座敷へ來て下さいな」と、美人が顏を出し、自分を見て直ぐ引込んだ。
間もなく細野が歸つて來た。
「今美人が君を呼びに來たよ、あれは此家の娘かい」
「うん」
「一體何の緣故で君は此家へ入り込んだ」
「一寸した關係で來るやうになつたのさ」
[Pg 258]「何か目的があるのか」
「外に食ふ道がないから」
「しかし玄關番はひどいぢやないか、何か外に仕事があるだらうに」と、自分は眉を顰めたが、細野は敢てそれを苦にもしない風だ。彼れは無限の空を仰いで泣き、詩を讀んで泣くことが多いけれど、自己の境遇について萎れることはない。
「僕は放浪すべき運命を有つてるんだ。定職に拘束されてゐたくてもゐられない。社を止めたのも、自分でいやで止めたのでもなし、敢て免職さゝれたのでもない。只何となく止めるやうになつたのだ。運命だね。此處へ來たのも、ほんの偶然の事さ。社の或友人に連れられて、此處へ古畵を見せて貰ひに來た時、主人に繪の話をしたら、此處の主人も少し變物と見えてね、僕の感想が面白いと云ふんだ。それから懇意になつて、食扶持に離れた時、轉がり込むことになつたんだが、何、長く居るつもりはないんさ。一體僕は祖父に能く似てるさうだがね、祖父は維新前に西國[Pg 259]四國と巡禮の旅ばかりして、最後に善光寺で往生したんだ。面白い一生ぢやないか。僕は昨夜その祖父の巡禮姿を夢に見たよ、雲に乗つて、脊には負笈、手には金剛杖、菅笠には同行二人と書いてある。二人の一人は僕かも知れん、僕も多少の旅費が出來たら、都會を出て巡禮で暮して見たい」と、云つて微笑した。が、彼れの面は四五年前よりも更に俗氣が少い。
「それも面白からう、君は生存競爭の渦中に投ずる人ぢやないんだから。しかし國の家族はどうする、君が貢がなくてもいゝんかい。」
「いや國ぢや困つてるだらう」
「ぢや、君一人仙人になる譯にも行かんぢやないか、第一經濟科に入つたのが、既に君自身の好みぢやなくつて、一家の事を思つたからだもの」
「無論さうだがね」と細野の面にも少しは憂色が現はれたが、それも瞬く間に消え失せ、「しかし僕は鄉家の事ばかり考へちやゐられない、それで彼方から手紙でも來[Pg 260]ると、厭な氣がしてならんから、成べく讀まんやうにしてる」
「だつて、何時までもそれぢやゐられまい、君だつて既に二三年も會社で働いてたんだから、多少事務の經驗も積んだらうしね、捜したら相當な職が得られるだらう、何なら僕が周旋しやうか」
「先づ當分見合せる、それに僕にや經驗が役に立たんから駄目だよ。尤も社へ出てる間は漸く一人前の事だけ出來んでもなかつたがね、社を出ると直ぐにその經驗が消えてしまつた氣がする。社にゐた時でも、帳簿に向つてると、何だかかう、脊に石でも脊負つてるやうで、呼吸も苦しくなるんだ、それで社から歸りに堀端へ出て、あの石垣や松を見ると、急に重荷が下りて氣が淸々するよ。で、終には算盤持つて何かやつてゝも、目の前に石垣がちら〳〵することがあつた位だ」
「何時までも君は變らないね、その點は羨ましいが、少しは生活も考へ玉へな」
「あゝその間どうかする」
[Pg 261]それから二人は、戀を談じ詩を語り、人生の憂苦を歎じた。細野の顏は窶れて、如何にも世路に疲れてるやうに見えるが、心は昔のまゝだ。人間の冷熱世路の艱難は彼れの肉を殺ぎ骨を削つても、その心を傷けることは出來ぬのであらう。彼れの胸中には永へに汚されぬ靈花が潛んでゐる。自分の心にもまだ多少昔の影が殘つてるのか彼れの詩の話を聞くと胸躍つて、俗事に身を沒するのが厭はしく、社長や重役の俗氣紛々たる顏に唾でも引かけたくなる。
「時に山伏町の婆さんはどうしたらう、君はちつとも行かないか」と、自分は突如に聞いた。
「むん、婆さんには一度も會はないが、先月だつたか、あの近所へ行つたからね、餘所ながらどうなつたか見やうと思つて、迂廻して行つて見ると、もう前の家はない、打壞して新築に取りかゝつてる」
「で、堤の家はどうだ」
[Pg 262]「あれは元の通りだ、家の者には會はないが、妻君の話聲はしてゐたよ、それで僕はいろんな事が考へられて、暫らくあの前をうろ〳〵してゐたよ、君、僕等が住んでた二階はもう倒されて影も形もないのだ」と細野は感じを籠めた聲で、白目を寄せて云ふ。
「あの二階時代が僕の一生で一番愉快な空想の時代だつたがね、もう壞されたかね。そして堤の娘はどうしたらう、無論何處かへ片付いたらうが、君は知らないか」
「知らんよ」
「さうか、僕はね、今だから云ふんだが、あの女にラブしてたよ」と自分は初めて他人に打明けた。
「さうか」と細野は驚いた風もなく、「君は獨りで思つてただけか」
「無論さ、今ならあの位の女に恐れを抱きやしない、成功か失敗か、兎に角當つて見るがね、あの時は奇麗な女を見りや、頭から天女のやうな氣がして、うつかり手[Pg 263]出しは出來やしない、只拜んでばかりゐたんさ、」
「しかしあの女は純潔だよ、僕は今でもあの女を思ふと、一種の刺激を受ける。そして若しか彼女が卑俗な男に結婚してゐやしないかと思ふと、非常に哀れに感ぜられる、」
「なあにあれだつて只の女だらう、で、君はどうだつた、あの女に思召しがあつたか」
細野は少し頰を紅めて、「あの女は一時僕の理想だつたんさ、無論結婚したいの何のといふ考へは更になかつたがね、その代り他人とも結婚しないやうに望んでゐた、結婚すれば堕落する、だから何時までも獨身で、女神で一生を送るやうに願つてたんだ」
「だが、幾ら君だつて、今あの女に會つたら失望するだらう、理想の女神先生、もう子供の一人や二人は生んで、所帶染みてるだらう、」と、自分は冷笑して、「あれ[Pg 264]から、葛原の大將は何處にゐるだらう、僕は堤の奴よりも葛原に遇ひたいよ」
「あの男は凾館にゐるさうだ、物產會社で多少重く用ひられて、今は彼地へ派遣されてるさうだ」
「さうか、葛原は理想のない俗物だが、どうもエライ所があるよ」
(七)
自分は大阪へ歸つて、半歲程は月に二三度必ず細野へ手紙を送つてゐたが、次第に怠り勝になり、以前と同じく全く音信の絕えるやうになつた。で、殆んど彼れの名をすら思ひ浮べなくなつた。所が或日、全く緣のない人から彼れの變死の噂を聞いたのである。自分は驚いて詳しいことを尋ねたが、明瞭には分らない。只或山間の溪に落ちて死んだとばかり、自殺やら過失やら、それも分らぬ。で、自分は色々に想像して見た。巡禮に出て崖の上で、何か考へ込んで足を辷らしたのかも知れぬ。水中に天女の影を見て飛込んだのかも知れぬ。しかし彼れは生活の困難の爲に自殺[Pg 265]するやうな男ではない。ウエルテルに同感してゐたけれど、决して失戀の爲に自殺する男ではない。自分の生活や戀の苦みも、自分から離して見て、泣いたり笑つたりしてゐた男だと、一人で定めて、敢て細野の死について、彼れの鄉家や友人から事情を聞かうともしなかつた。それから五年の後、自分は東京の支店に勤めることゝなり、飛立つやうに喜んで上京し、小石川に一家を構へた。この時は既に結婚をして子供も一人設けてゐたのである。
或夏の午後仕事を濟ませ茅場町の會社を出て、電車の停留場へ向けて步いてると、向うから鍔の廣いパナマの帽子を被つた大柄の男が、綱引付の車で駈けて來る。稍々近づいて見ると、それが葛原のやうだ。もしやと疑ひながらその顏を見詰めてゐた。するとその男も自分の顏を不審げに見てゐたが、摺違う機會に、彼れから大聲で、「槇田君ぢやないか」と云つて車を止めた。
[Pg 266]「葛原君ですか、どうもさうだらうと思つた。久振りだねえ」
「いゝ所で會つた、色々話もしたいんだが、今日は急用があるんだからね、近日改めて會はうぢやないか、堅く約束して置かう」と互ひに住所を交換して別れた。
この後自分は二三度葛原に會つて、彼れのお供をして料理屋や待合入をして呑み明かすこともある。或時彼れに向つて、
「僕は山伏町時代には寧ろ君を嫌つてたが、今ぢや君に感服する、君はあの時分から世間を心得てたからね、確かに僕等より十年も進步してゐたのだ」と云つて細野の話をすると、葛原も久振りで細野を思ひ出したらしく、
「あの男には一度停車場で會つたよ、あれが死にに旅行する時だつたらう、元氣のない顏で、ぼんやり立つてたよ」と面白さうに笑ひ、
「山吹町にゐた時、何でも君が一人で外へ移つた後でね、餘程面白かつた。細野奴、隣りの美人に惚れてゝ、獨りで煩悶的のことをやつてたさ、或時も何を考へたかね、[Pg 267]夜中に起きて、裏木戶から堤の庭へ入り込んでうろ〳〵してたんだらう、其處を書生か誰れかに見つかつて、大騷ぎになつたんだがね、隨分滑稽だつたよ。水で死んだのも、流行の失戀的煩悶か何かの結果だらう」と、冷笑的に云ふ。しかし自分は細野が庭に忍び込んだのも、何かの夢に誘はれたので、別に意味もなからうと思ふ。彼れの死については偶然か故意か、誰れも知らぬ。只葛原は細野のことを話す每に、「變な男だ」とか「あれぢや飯が食へん、生きてられる譯がない」とか、一口に嘲つてしまうのが例で、自分も同意はする。しかし時々は細野が空を仰いでる姿を思ひ出し、彼れが白雲の徂徠を見て感淚にむせんでる五分間と、葛原の一代の事業と、何れが味が深いだらうかと疑ふこともある。
[Pg 269]
株虹
太平洋岸の激浪怒濤、東北地方の荒凉たる光景は見馴れてゐるが、これ等はどうも予の性に合はぬ。それでこの秋は局面を變へて、瀨戶内海の沿岸に寫生旅行をした。氣に入つた土地には五日でも六日でも滯在し、厭になれば夜中にでも出立する。贅澤を盡す旅でもなく、名所舊蹟を遍歷するのでもなく、只海岸を巡つて柔かい波の音を聞き、よく食ひよく眠るを喜んで一月ばかりを過した。その中旅費も乏しくなり、歸京の期も迫り、申譯ばかりのスケツチも、大分量張つた頃、或無名の海岸に最後の旅裝を解いて數日を送ることゝした。
夜遲く着いて撰擇の暇もなく、酒樓兼帶の小さい薄汚い旅人宿に宿つたが、案外によく眠れたので、翌日は早朝から畫板を提げて海邊へ出た。藻草の臭ひや魚の臭はするが、既に鼻に馳れて、それが何となくいゝ氣持がする。呟く如く足下へ寄る波[Pg 270]の音を聞くと、潮の中へ全身を浸して、骨髓まで海氣に染みたくなる。山間には秋の哀れさ淋しさが露骨にあらはれてゐやうが、少くも瀨戶内海の潮風には、しんみりした穩かな香が漂うてゐても、萬物を凋落せしむる氣を含んで居ない。
予は二三十分間徐ろに滿ち來る潮に對し、陸から十丁乃至一里の海中に浮んでる二三の小さい島の間から、一つ二つ夜漁の舟の歸りかけてるのを見て後、スケツチに取かゝつてると、知らぬ間に後から誰やら覗いてゐて、「うまい物だな」と無遠慮に聲を掛けた。旅行中寫生の度每に田舎物に取卷かれて、高い聲で奇妙な批評を聞かされるのに馴れてゐるから、別に氣にも留めなかつたが、この男は予の前に立つて、如何にも馴れ〳〵しく、
「貴下は何處からお出なすつた、岡山ですか、上方ですか」と問ひ掛ける。
予は變に思つて見上げると、丈の短かい筒袖を着、鼻下に髯を蓄へた男で、釣竿を肩にかけ、手に魚籠を提げてゐる。言葉つきから態度まで、只の漁夫とは思へない。[Pg 271]肥つた柔和な顏には微笑を含んでゐる。
「東京です」と、予が簡單に答へると、
「はゝは東京ですか、私も十年も前に彼地に參つたことがあります」と、多少自慢の色を見せて、「そして、今は何處に宿をお取りですか」と、さも懇意さうに話しかける。
「日野屋といふ家です」
「うん、彼家ですか」と、眉を顰めて、「ぢや八釜しくてお困りでせう。あれは下等な家でさあ、とても東京の方がお宿りなさる所ぢやありません。と云つて、外にいゝ宿もないんですが」と、賴みもせぬに、首を傾げて考へてゐたが、やがて、「ぢや、どうです、私の家へお出でなすつちや、丁度離座敷が空いてゐますから、お貸し申しても差支へありません」
「はあ、都合でお願ひに參りませう」と予は卒氣ない返事をして、あまり取合はな[Pg 272]かつたが、彼れは「是非お出でなさい」と繰返し、「あの宮の後です、鶴崎といやあ直ぐ分ります」と、顋で敎へて、丁寧に予に一禮し、杭に繋いである小舟に飛乗つた。予はその漕ぎ行く姿を見送り、田舎物の呑氣で隔てなきを羨ましく感じた。それからぞろ〳〵集つて來る鼻垂れ小憎子守などを相手に寫生したり、無邪氣な話をして一日を暮した。で、宿へ歸ると、据風呂に入つて後、相宿の旅商人と世間話をしながら、夕食を食つてゐたが、ふと彼の男を思ひ出し、お給仕の女主人に向ひ、
「女主人、鶴崎といふ家があるだらう、何をする家かね」
と聞くと、女主人は頓狂聲を出して、
「何もしちやゐなさらん、お金持だもの」
「髯のある人は、あれが鶴崎の旦那かい」
「ありや若旦那だあ」
「ぢやあの人は釣ばかりして、遊んで暮らしてるんかい」
[Pg 273]「えゝ、釣にも行きなさるし、獵にも行きなさる。結構な身分で御座いまさあ」
「ぢや釣も獵も上手だらうな」
「なあに、去年も鐵砲の狙ひを間違へて、柴草あ刈つてる女の足に傷をつけたんで御座いまさあ、それからちうものは、若旦那樣が鐵砲打ちに出なさると、芝刈は逃げ出す位だ」と女主人は鐵漿の齒莖を出してにつたり笑つた。
「鶴崎といやあ、この界隈で一番の家柄でさあ、隨分村の事にや肩を入れたもので、この海端の道普請なんか一人でやつたものでね、村の者がお禮に石碑を立てた程だ。村にや大した恩人で、鶴崎の屋敷にや落書一つする者がないていふ評判だつたが、今は世が違つて來た」と、旅商人の素麺屋は、薄黑い飯を鵜呑みにして、赧い顏に歎息の樣子を見せた。「ねえ、お神さん、今の鶴崎の大將も惡いぢやないか、丸八の嚊を引掛けてるちうぢやないかい」
「そんな噂だがな、困つた若旦那だ。去年も吉どんが鮪取りに土佐へ行つた留守に[Pg 274]も、何だかあつたやうだしな」と、女主人は小聲で云つた。
「大將、金はあるし懷手で遊んでるから、そんなことでもせねや日が立つまい。それに丸八も鶴崎の家にや親爺の代から借金があるし、世話になつてるんだから、目をつぶつて我慢してるんだらう。嚊のお伽は借金の利息のやうなものだ、ハツヽヽヽ」
予はこんな話を聞いて、好奇心が湧き上り、急に鶴崎を訪ねて見たくなり、飯が濟むと、女主人に案内させ、提灯ぶら提げて、その家へ行つた。潜戶を入ると、庭前で盲目の男が唐臼を搗き、かの若主人は臼の側に立つて、何やら小言を云つてゐたが、予を見ると、ぺこ〳〵二三度も頭を下げて、「よくお出で下すつた」と、手を取らぬばかりにして、座敷へ通した。
予が旅行中の見聞談を緖とし、主人は釣の話獵の話をぺら〳〵と絕間なく述べ立て、終には倉から書畵を一抱へも持出して、一々所由の說明を始める。舊家ほどあつて、[Pg 275]山陽や文晁や竹田等の眞筆もあるが、中にはひどい贋作も交つてゐる。
「御覽の通りの貧乏村で、外に書畵なんか持つてる家は一軒もありませんがね、私の家は祖父の代から、多少風流氣がありましてな、矢鱈にこんな者を集めたのです。この竹田のなぞは祖父が九州へ參つた時、わざ〳〵賴みましたので、丹山翁の需めに應ずとある丹山は、祖父の雅號ですよ」
「しかし隨分お集めになつたものですな、これ丈あれば東京へ持つてゝも大したものですよ」
と、褒め立てれば、主人は「へゝゝゝ」と笑つて、「なあにこれ許りぢや、まだ自慢になりません、私も一つ奮發して名作を蒐めたいと思つてゐます。で、どうでせう、折角お近付になつたんですから、貴下にも一つ書いて頂く譯に行きませんか、大切にして子孫に傳へます」
「どうして私共の者が」
[Pg 276]「いえ是非お願ひ申したい。こんな好機會はないんですから」
と、東京では埃屑の如き予を、天下の大美術家でゝもあるやうに、頻りに嘆願し、
「こんな田舎でもね、昔から年に二度や三度は、書家だの歌人だのが、私の家を訪ねて、幾日も逗留して行きますよ、貴下も御遠慮なく私の家へお越しになつて、五日でも六日でも御逗留なすつて、ゆつくりお書き下さい、明日あたり釣にでも御案内しませう」
予はこれ程尊敬され優待されたことは、甞て例がないのだから、多少得意になり、二三度形式的に辭退した後、翌日から此家の離座敷に移ることを約した。
一村の半は疊のない家で、障子の代りに蓆を垂れてる程だが、その間に在つて鶴崎の家は一箇の小城廓の趣きがある、四方を練塀で圍み、屋敷内に數畝の菜園もあり、土藏が二つ、母屋は百餘年を經たもので、柱に蝕ばんだ跡もあるが、如何にも手丈夫で宏壯に出來てゐる。
[Pg 277]若主人は丁度三十歲、小學校卒業後、近村の漢學塾に學んだのみで、左程學問をしたらしくはない。今は一家の主權者だが、何と定つた仕事もなく、一村の問題にも少しも關係せぬさうだ。
「しかし貴下が村を指導なさらなくちや、外に適任者はないでせう」と、予が問うと、彼れは髯を捻つて鹿爪らしく、
「いやこの村の奴は皆野獸のやうでしてね、目上の者を敬うことを知らず、行儀作法も辨へんのですから、指導も何もありませんよ、だから私は村の者等が何をしやうと、一切關はないで、自分は自分で好きな事をして氣樂に暮してゐます。しかし四五年前から私が先きに立つて碁の會や淨瑠璃の稽古を始めました。そのために多少は上品な氣風が出來て來たやうです、明日も朝から碁の師匠が來る筈ですが、貴下も會にお加りなすちや如何です」
「えゝ有難う、しかし田舎にゐると長命をする譯ですね、私もどうかして、こんな[Pg 278]風景のいゝ田舎の遊民になりたいものだ」
と、染々彼れの境遇を羨んだが、彼れはそれを當然の如く思つて、「ぢやどうです、此地に永住なすつちや、向ひの島は私の家で有つてるんですが、お望みならば、あれを全部お貸し申してもいゝ。今は近所の者に貸してるんですが、何、何時だつて取上げりやいゝんでさあ」
と、事もなげに云つて、大口開けて笑ふ。
「はあ、私もうんと稼いで財產を造つたら、島を拜借して、別莊でも建てるんですね、しかし島一つ御自身の者だと、貴下は丸で王樣のやうですね」
と、予も相手を見て煽動ると、
「いや、この小さい村ですが、畠の三分の一ばかりは私の所有です、全體この村の草分は私の先祖で、代々村のためには盡したものです。だから明治の初めに頌德碑を立てゝ、お祭をした位ですが、どうも世の中の風儀は惡くなりましたね、今じや[Pg 279]石碑も滅茶々々に瑕がついてゐます。一つは今の學校敎育が惡いんですな、貴賤の區別も敎へるぢやなし」
と、大に憤慨した。それから下女がわざ〳〵隣村から取つて來た酒の御馳走があり、予は十時過ぎに宿へ歸り、旅商人と一緖に、襖もない居室に眠つた。
その翌朝から予は鶴崎の賓客となり、三度々々取立ての魚を饗せられ、絹夜具に寢かされ、「先生」と呼ばれて、二三日を送つた。で、主人の日常生活を見てると、彼れは朝早く起きて、褞袍を着たまゝ胡座をかき、煙草を吸ひながら、作男を指圖し、自身も時々はぶらり〳〵畠廻りに行くらしい、家にゐる間は一時間に一度位、下女か下男か妻君か誰れかに向かつて、何か云つては怒鳴つてゐる。屡々屋敷の周圍を懷手でぶらつき、偶々落書でも見やうなら、凄じい聲で下男を呼んで削らせ、惡戯者でも見つけたらば、子供であらうと女であらうと引捕へて縛り上る。しかし予に對しては穩かで親切で、全たく人が異うやうだ。妻君は痩せて靑く、大抵は奧へ[Pg 280]引込んでゝ、家の事にはあまり關つてゐないやうだが、一人變な男が始終出入して、下男下女以上の特權を持てゐるやうだ。婢僕はこの男を馬鹿市々々々と蔭で呼んで居るが、主人には餘程のお氣に入りと見え、何をしても小言を喰つたことがない。丈が短くて顏が圖拔て大きく、智慧の足らんやうな所もあるが、又極めて敏捷で、樹登りや屋根傳ひをさすと、飛鳥の如く身を運ぶ。それに不仁身であつて、打たれても毆られても痛くはないといふ。
或晚主人は、予の前にこの馬鹿市を呼び、鞭を持つてぴしやり〳〵脊中を打ち、「不思議ぢやありませんか、これで何とも感じないんですから、さあ貴下も一つ打つて御覽なさい、實際當人に苦痛はないんです」と、鞭を前に置いて勸めたが、予は如何にも殘酷な氣がして、座興にもそんな眞似は出來ず、その代りに杯を差してやると、市公は續け樣に五六杯を煽つて、その悟れる如く愚なるが如き顏を赤くして、船頭唄を唄つた。聲もいゝし唄も面白いが、予には何となく哀れに感ぜられる。
[Pg 281]で、主人に向つて、「一體この男は何物です」と聞くと、
「孤兒ですよ、親爺は鳴門で難船して死ぬる、阿母は旅商人と駈落する、後に一人殘されてたのを、可愛さうだから、私共が育て上げてやつたんです、今は舟乗になつて、糊口だけは出來るんですが、氣まぐれ物で、何處へ行つても永くは勤らんのです」
「しかし孤兒ぢや可愛さうですね」と、市公を見て、同情を表したが、彼れは平氣な顏をして、予と主人とを見比べてゐる。
予は出立の前日、スケツチ帖の一つを材料とし、主人に約束の小さい風景畵を申譯だけに書き上げ、獨り屋後の丘や畠の畦を散步し、感興に耽つた。中秋の空は底深く澄み、目の下には靜かな海が廣がり、一村は柔かな光を浴びて眠れるが如く、寂として人語なく、只漁船から物打つ音がコト〳〵と幽かに響くのみ。小徑の左右には大木はなく、山間のやうに落葉を踏むの興はなけれど、灌木が繁つて、その間に[Pg 282]女郞花濱萩が交つてゐる。予は此等の花を雜草の間から、一本づつ撰り出しては折り、花束を作りながら、無意識に菜畠を橫ぎつてると、後から怒鳴る聲がする。顧みると一丁程隔てゝ頰被りをした大男が鍬をついて立つてゐる。予は別に氣にも止めず、ずん〳〵步いてると、彼の男は物をも云はず、いきなり、後から予の後腦を打つた。力が籠つてるのでもないが、痩身には酷く應へて、前へのめつたのを、漸く踏み止まつて、「何をするんだ」と、身構へすると、
「馬鹿、何をするもあつたものか、おれの大事な畠を何故踏みやがつた、今鍬を入れたばかりぢやないか」
と、恐ろしい劍幕に、予は吃愕して、一口の返答も出來ず、ぼんやり相手の顏を見てると、突如に目の前に市公が現はれて、
「この人は若旦那の大事なお客樣だぞ」
と相手を叱り、予の手を執つて、さも保護者でゝもあるやうな態度をして、大股に[Pg 283]步み出した。予は胸を鎮めて、
「彼奴は誰れだ」と問ふと、
「丸八といふ奴さ」と云ふ。
「うん、あれか」と獨りで首肯いて「市さん、お前は鶴崎の旦那のことを知つてるだらう」
「そりや知つてるとも、何でも知つてらあ、あの旦那はえらい人だ、誰れでも意地める者があつたら、旦那にさへ云ひつけやうなら、直ぐ敵を取つて吳れらあ、何しろ我等あ、旦那のお氣に入りだもの」と、大得意の風をして、「それで我等あ、村の者が、旦那の惡口を云つてると、直ぐ吿口をしてやらあ、旦那は喜ぶせ」と首をすくめて予の顏をのぞき〳〵、その吿口の例を話す。
予は市公に連れられて、宿へ歸つたが、百姓に毆られたことは一言も語らず、獨り離座敷に引籠り、鞄を整頓し、翌朝出立の用意をなし東京の友人宛てに、二三の端[Pg 284]書を認めて居ると、母屋の方で、主人の怒鳴り聲がして、靜かな空に尖く異樣に響く。又始めたなと、障子の隙間から窺くと、主人は小高い緣側に座り、その下の石段に、かの見覺えある百姓が蹲んでゐる。少し隔つてる爲、言葉の綾はよく分らぬが、見た所、白洲のお捌きといつた風だ。
主人は疎らな髯を捻つて尊大に構へ、眉を怒らせて相手を睨みつけてゐたが、百姓は俯いて、口を噤み、暫らくして挨拶もせずに歸つてしまつた。
予は主人に對して、不快な氣が萠し、優遇も有難味がなくなり、この平靜の漁村も多少厭やになり出した。
すると主人は微笑〳〵して入つて來て、
「散步して入しつたんですか、今ね、市公に聞ますと、馬鹿奴が貴下に大變御無禮な事を致したさうで、どうも無敎育の者は仕方がありませんよ、それについて私も申譯がないと思ひましてな、早速彼奴を呼びつけて小言を云つときました。なあに[Pg 285]不都合な奴には、田地を取上げてやりますよ、あの田地だつて皆私の者ですからな」
と、自身の威光を見よと云はぬばかりの風をする。
「だつて、それ位の事で、あんな貧乏者の田地を取上げるのは可愛想ぢやありませんか、どうせ私が惡いんだし」
「いや〳〵、あんな蟲けら同然の者には口で敎へたつて駄目です、食ふにも困るやうになつたら、少しは性根が入るでせう」
と、彼れは百姓共の卑しい汚い生活の樣を說明して、頻りに「蟲けら同然です」を繰返した後、「どうです、釣にお出でなすつちや、私が御案内致しませう」と勸める。予は今日に限り釣魚に心も向かなかつたが、この一日が瀨戶内海の見收めであれば、强いて心を引立てゝ承諾した。
で、市公に釣道具を擔がせて、一足先へやり、予と主人とは後から磯へ出たが、何時もの通り肥桶を擔いだ老農夫も網を抱いてるチヨン髷の漁夫も、皆擦れ違ひ樣に[Pg 286]鉢卷を取つて恭しく挨拶し、主人は目か顎で會釋して村王の威を示す。中には予に對しても腰を屈める者もあつたが、ふと埠頭場に集まつて艫綱を造つてる二三の若い漁夫が、互ひに予を見ては嘲けつてるやうなのが目についた。ほんの耳語いてるのであらうが、田舎者なれば、自然に聲が大きくて、予の過敏な耳には響いて來る。
「あの人間をぶん毆つたら、田地を捲上げられるんぢやちうぜ」
「彼奴は馬鹿市の相棒だらう、馬鹿旦那の御機嫌取りに遠方から來たんさ」
「おれ逹や腕さへありや、五兩や十兩は何時でも稼げらあ、船板三尺下あ地獄と决つてるんだから、誰れだつて恐かあないさ、」
「さうとも、あの大將、又漁場へ邪魔をしに行きやがらあ、鰒でも釣るんかい」
と、彼等の一人は予に向つて握拳を突出して見せ、くつ〳〵笑つてゐる。予は不快で溜らなくなつた。主人には聞えぬのか聞えたのか知らぬが、高聲で釣の講釋をしながら、舟に乗り、市公には閼伽をすくはせ、自分では櫓を操る。予は舳に彳んで[Pg 287]煙草を吹かせてゐたが、不快の念は容易に去らぬ。
舟は油を流したやうな水面を辷つて、島蔭へ來た。主人は櫓を棄てゝ水棹を取り、
「魚にも巢があります、だから釣もその巢を見つけてからでなくちや、幾ら上手でも釣れるもんぢやありません」と、舟をその魚の巢の側へ留め、市公に碇を卸させた。蒼く澄んだ水の底に藻屑が生ひ茂り、小さい魚が水面に飛び上るのを見ると、予は心躍り、先の不快も忘れてしまう。此處には既に二三艘の漁船がゐて、一心に釣をしてゐたが、我等の舟を見ると、漁夫は變な顏をして、相ついで他方へ逃げて行く。
「そら疫病神が」と云つてるやうに見える。
「私等が釣ると、外の漁夫の妨害になるんぢやありませんか」
と、予が氣兼をすると、
「いや、此處は私が見つけたので、先づ私の領分のやうなものです、何卒御遠慮なくお釣りなさい」
[Pg 288]と、主人は小蝦の肉を餌にして、釣針を垂れると、見る間に大きな沙魚が釣れた。予は市公に敎はつては釣を垂れ、不馴れな手ですら二三時間に、沙魚や海鯽や或は鰒が數十尾も釣れた。
釣りの面白さに、我等は多く話しもせず夕方までこの島蔭に漂ひ、釣つては魚を舟の底に投げ入れ〳〵してゐた。
「どうです一服やりますか」と、主人は釣竿を置いてマツチを擦つた。
「成程よく釣れますね、これだと商賣になるでせう、僕も繪を止めて漁夫になるかな」と、予は舟底に重なり合つてる魚が、ばしや〳〵音をさせるを聞き、漁村の秋氣の膓まで染み込むを覺えた。風はます〳〵凪ぎ、ちぎれ〴〵の夕雲も空に固定してるやうだ。
主人は兩膝を抱いて銜へ煙管で、「どうだ、市公、水練を御覽に入れちや」と、予に向ひ、「此男は水潜の名人です」と云つたが、市公はその言葉の耳に入らぬ程、一心に[Pg 289]空を見つめ、
「や、株虹が出た、大風だ〳〵」と叫んだ。
主人もその方を見上げて、「御覽なさい、あの虹を、あれが出ると、屹度空模樣が變るんです」
山の端には、太い短い虹が物凄くかゝつてゐた。この内海の大嵐はどんなであらう。予が歸京後に描いた大作は、三人が舟中でこの虹を見て居る所である。
[Pg 291]
凄い眼
工場の奧に疊を敷いた一室がある。狹い一方口で丁度袋のやうだ。滅多に掃除もせねば隅々には埃が積もり、壁は一體に黑ずんでゐる。棚にある磨滅した活字、開いてる傘窄めてる傘、散ばつてる衣服や帶、この居室にある者に一つとして汚れめのない者はない。それに空氣の流通は惡い。時候は梅雨で二三日來鮮かな日光が窓ガラスを通つたことはない。異樣の臭氣が室内に漲る。
しかしこの廢物同樣の居室も、數多の人に利用されてゐる。騷がしい社會の隱れ家となつてゐる。仕事に疲れた老いたる社員が、こつそり此處に忍んで、肱枕で腰を叩いてゐることもある。丸髷の女工が火鉢の前に立膝をして二三服煙草を吸うて行く。夜勤の四五人がジメ〳〵した座蒲團を取捲いて、片肌拔いで花札を弄ぶ。折々は艶めかしい言葉さへ聞かれるさうだ。
[Pg 292]そして集金掛帆田常造は十數年來此處に起臥してゐる。年齡は五十を越したばかりだが、顏が萎なびて頰が凹み、櫛梳らぬ髮は野生の雜草の如く、星明りに黃ばんだ痩腕を投げ出して寢てゐる姿はこの世の人とも思はれぬ。朝は職工が威勢よく入つて來て、周圍で騷ぐのに目を醒まされ、ヒヨロ〳〵と起上つて、足を引ずり匐
ふやうにして階子段を下りる。顏を洗ふと裏の屋臺店で鹽餡の大福餅を三つ買つて來て、應接所か車夫溜りで、顏中をモグ〳〵させて食ふ。喰うてしまふと水道の水を茶椀に一杯呑んで、自分の居室へ歸る。それから外出の身仕度をして草鞋を穿き、風呂敷を脊負ひ、細い竹の杖をついて、トボ〳〵と集金に廻る。雨が降ると番傘を竹の杖に代へるのみで、一
日たりとも休んだことがない。吹けば飛ぶやうな身體で重さうな傘をかついで、風雨を衝いて步いてゐるのは、外目には悲慘に感ぜられるが、當人は苦にもしない。命ぜられた通りに賣捌店を順ぐりに廻つて、夕暮には時刻を違へずに歸つて來る。それから足を濯いで、晩餐に取掛るのだが、晩餐も朝と同じ[Pg 293]く一つ一錢の大福か鐵砲卷、只朝は生水で濟ますのに、晚には小使
部屋から暖かい茶を貰つて來て飮むだけ異つてゐる。夜はこの居室には不似合な電燈の下に腹這ひになつて、珠盤を前に帳簿を調べ、一錢の相違もないのを幾度も見屆けて、初めて安心してごろりと橫になる。尤も時々は自分の財產調べもするので、胴卷の金庫から幾重にも白紙で包んだ紙幣を取出し一枚々々調べて押頂き、又元の通りに收めて
胴卷を枕の下にかくして眠る。この財產調べの折には、人目を憚るのと悅しいのとで元氣のない目も活々して來る。貯蓄額はせい〴〵二三百圓であらうが、社員の噂では千圓には逹したと定められてゐる。費用を恐れて妻を離緣し子をも勘當して、獨りぼつちで食ふ者も食はずに貯蓄して何にするのであらうとは、若い社員等の疑問で、屡々調戯半分に聞いて見るが、彼れは薄氣味惡く笑ふのみで相手にもしない。一日の仕事――食事もこの人には樂みではなくて仕事の一つだ――を終ると、居室の片隅に他人の邪魔にならぬやうに煎餅蒲團を額まで被つて寢る。寢てからは只翌[Pg 294]日を待つばかりで、側で誰れが何をしてゐようと、少しも心に留めぬ。輪轉機の音、植字歌、雨の音、嵐の響、職工の喧嘩も口論も、皆老人の耳を煩はさずに消えて行く、睡りを妨ぐる者もない。
所がこの二三日、帆田老人は腰のあたりにビリ〳〵微かな疼痛を感じて、容易に眠つかれぬ。かねて醫藥の料にと物干臺で乾かした蕺草枇杷の葉などの藥草を煎じて呑んでも利目がない。で、今日――六月二十三日――も蒲團へ橫になると自分で腰を撫でゝ小聲で呻吟てゐたが、不圖枕許で自分を呼ぶ聲がする。
「君一つお賴みがあるんだがね」と、夜勤の宇野が靴のまゝ疊の上に立つて、「今香川から電話が掛つたんだが、赤坂で飮んで金が足らぬので歸れんそうだから、君迎へに行つて吳れ玉へ」と云ふ。
帆田は白布の夜具から乗り出し、顏を顰めて宇野を見たが、暫らく返事をしない。
「ねえ君行つて吳れ玉へ、金は今會計から借りて持つて來てるんだ。使賃は出すよ」
[Pg 295]「行つてもえゝが、今夜は氣分が惡いでなあ」と、皺枯れ聲で云つた。
「二十錢出すよ、一時間で行つて來られるんだから、先日よりや割がいゝよ」
帆田は尙躊躇してゐたが、やがて、
「ぢや行かうかい」と、蒲團から匐ひ出した。寢衣は着ず菱形の腹當のみを着け、脊骨は高く現はれてゐる。破扉二つを繼ぎ併せた衣桁から衣服を卸して、ゆる〳〵身體に卷きつけ、胴卷をぐつと締め、尻端折つて出て行つた。糠のやうな五月雨の降つてゐる中を傘もさゝず、電車にも乗らぬ。小石に躓づいても倒れさうな足を踏占め〳〵、竹の杖を手賴りに赤坂まで往復した。
二十錢銀貨を財布に入れ、腰の疼みを我慢して步いたが、次第に疲れて、社近くなると途にへたばりそうになる。喉は渇いて來る。そしてふつと酒が飮みたくなつた。酒と云ふもの月に一度飮むことも稀だが、今夜はよく〳〵堪へがたくなつて、使賃の半分を捨てるつもりで、ギヨロ〳〵見まはした。酒屋もビアーホールも左右にあ[Pg 296]れど、電燈に輝いて美しく、氣臆れがしてとても入れそうにない。で、わざ〳〵社の前を行過ぎ迂道して、大根河岸向うの繩暖簾を潜つた。ランプは薄暗く、土間は連日の雨に濕り、腐つた臭ひが漂うてゐて、外に客は一人もゐない。彼れはべた〳〵汚れた腰掛にぐつたり身體を曲げて座り、燒酎を啜つた。一杯が五錢だ。
手についた滴を頰になすくり、十五錢の釣錢を財布に入れて戶外へ出たが、頭も足も一緖にふら〳〵する。手拭で鉢卷をして細い雨の中を踊るやうな手つきで通つて
「ア、コラ〳〵」と皺枯れ聲で拍子を取つて社へ入つた。
「大變景氣がいゝね、君が酒を飮んだのは初めて見た」
と、宇野は微笑々々して云つた。
帆田は「へゝゝ」と笑つて奧へ行きかけたが、又後戾りして、懷から鉛筆の受取書を宇野に渡した。
「受取なんか入らないのに」
[Pg 297]「でも間違ひがあつちやならん」
と云つて、帆田は又「ア、コラ〳〵」を續けて、自分の居室へ入ると、電燈の側で職工が四人花札を並べ、銅貨の音をさせてゐた。
物珍らしそうに上から覘くと、その中の一人が、
「帆田さん明日まで五十錢ばかり借して吳れませんか」
と、顏を上げた。
帆田はへゝゝと云つたきり、隅の寢床へ轉げ込んだ。濡れた衣服のまゝ鉢卷をも取らずグツスリ睡てしまつた。
それから一時間、香川が赤い顏をして、ビシヨ濡れで歸つて來た。上衣を脫いで黑ずんだ肉色のシヤツ一枚になり、宇野と賑やかに話してゐたが、夜は更けて、周圍も靜かに、繁吹きに曇つた玻璃窓から、柳葉の風に亂れてゐるのが見える。
「さあ歸らうか、電車のある中に」と、宇野は椅子を離れた。
[Pg 298]「僕も寢ようか」と、香川は眠そうな目で時計を見て欠伸をした。
「可愛そうだね、そんな大きな身體をして宿るに家なしぢや、」
「うゝん」
宇野の靴の音が消えると、香川は椅子を二脚づゝ兩手で提げて、隣りの豫備應接室へ行つた。此處には新聞の綴込みが保存され、テーブルと椅子が据ゑつけられてゐる。光は廊下の電燈が隅の方から薄く照らすばかり。香川はテーブルを片寄せ、椅子を四脚づゝ二列にくつゝけて並べ、その上に毛布を敷き、厚い冬夜具をかけ、素裸になつて藻ぐり込んだ。書物を枕に首だけ出して寢てゐたが、蒸暑くて身體が汗ばんで來るので、我知らず夜具を腰から下へ押のけ、胸毛のある赤らんだ胴を曝らし、一つ二つ蚊の襲ふのも知らずに眠入つた。
夜は更けて電車も絕え、街上は靜かに、雨は或は急に或は緩く降りつゞけてゐる。香川は酒の醉ひに若い血汐の心よくめぐつて、夢も見ず、片足を投げ出して、太い[Pg 299]緩い息をして眠つてゐる。帆田は一時忘れてゐた疼痛の又も起つては、屡々夢を破られて呻吟てゐる。
工場の奧の電燈も消された。暗い中に老人の低い呻吟と香川の高い鼾鼻とが漂うてゐた。その間に階下では輪轉機の音、新聞を積出す音がしてゐる。
空しき編輯局には時計が一時を打ち、二時を打つ。三時を打たんとした頃、香川は口をもが〳〵させ唾を呑んでゐたが、やがて鼻を鳴らして深く息を吸ひ、目を細くして寢返へりをした。喉が乾く。
で、椅子を脫け出て、柱の釘に釣した洋服の上衣を裸身に纏ひ、階下へ驅け下りて水道の水をガブ呑みして歸つた。
此頃は癖になつて今時分に目が醒める。今夜は酒の勢ひで睡過ごしたが、それでもまだ短かい夜の明けんともせぬ。空氣は寢た間に冷えて來て、身體がゾク〳〵する。彼れは嚔をした。椅子の足にからまつてる夜具を引上げて首まで被つた。
[Pg 300]天井の黃ろい紙が垂れ、連日の雨に黴臭い香ひが、締切つた居室の中に何處からともなく湧き出て來る。
彼れの目は冴えて再び睡つかれぬ。筋肉の逞ましい腕に力を籠め、脊延びをして、
「おれも何時になつたら滿足に疊の上に寢られることか」と思つた。グツと夜明まで睡れゝばよいが、暗い中に目が開くと、屹度この惡念に取つかれる。殊に醉つて騷いだ晚はひどい。
しかし醉つた間に何を唄つたか、何を喋舌つたか、何んなにして女と戯れたか、彼れの頭にはハツキリ殘つてゐない。只ボンヤリ「面白かつた」と云ふ感じが浮んで來る。それにつれて、「明日の辨當代もなくて、こんな事をしてゐたつて」と云ふ感じが激しく胸に響ゐて來る。
彼れは又强い嚔をした。それが淋しい居間に鳴り渡る。
「まだ夜の明けるに間があらう」と、頭を持上げて玻璃越しに廊下を見ると、工場[Pg 301]の入口からコソ〳〵と草履の足音が聞える。外は雨で暗い、足音は次第に近づいて寢室の側まで來た、「今時分誰れだらう」と疑つて、薄氣味惡く思つて見てゐると、薄光に幽靈のやうな帆田の半身が現はれた。幽かに呻吟きながら階子段の手摺に凭れた。
香川はこの痩せさらぼへる老人が、自分と同じように一人ぼつちで、奧で寢てゐることを思ひ出した。で、ドアを開けて首を出し、
「お爺さん、何をしてる」と、陽氣な聲で問うた。
「腹が痛くつて」と、帆田は牡蠣のやうな目を向けて、虫の音で云ふ。
「そうか困つたね、醫者でも呼んで來ようか」
「なあにそれにや及ばん」
帆田は匐ふやうにして階下へ下りた。厠へでも行つたのだらう。
香川は階子段の隅の玻璃窓を開けて冷たい空氣を吸うた。暗澹たる雲は低い屋根か[Pg 302]ら屋根へ垂れて、曙光はまだ堰き止められてゐる。
彼れは再び寢床へ歸つたが、帆田老人の事が氣になる。あれで金ばかり溜めてゝ何をするんだらう。家もなく、病氣の看護もされず、紙幣を抱いて死んでしまう。それつきりだ。それ以上になすべきこともないのだ。しかし自分は歲も若い、身體も强い、爲すべきことが多い。爲すべき時に何もせず、徒らに帆田のやうな骸骨になるのは無念だ。「あゝ金が欲しい」帆田には無用の金だが、自分には生きて役に立つ。隣同士で寢てゐて、老人は何時死ぬかも分らぬ。財產の相續人もなく、財產の高も知つた人はない。
で、香川は夜具で顏を蔽うて、それからそれと雜念に襲はれてゐたが、周圍の騷々しくなるに氣付いて、首を出すと、何時の間にか夜は明けて、小使が掃除をしてゐる。
香川の雜念は搔き消す如く消えてしまう。で、元氣よく起きて、洋服を着け、顏を[Pg 303]洗つて後、髯を捻りながら、無心に社内をぶらついてゐると、應接室に帆田の後姿が見える。朝餐を食ひながら、前に算盤を置いて帳簿を調べてゐる。
香川が後から近づくと、老人は驚いたやうに胸に手を當てゝ振向いた。
「もう病氣はよくなつたのかね」
「もう大丈夫だ」
「でも大事にせんといかんよ、一日位休んでもいゝだらう」
「はゝゝ、休む譯にも行かんでな」
「僕が代理で廻らうか、僕は君に肖かつて金持になりたいから」
帆田は鹽餡の大福を豆粒程に千切つては口に入れて、相手に耳を貸さず、震へる指先で算盤を彈いてゐた。
「君は僕を養子にして吳れんかね、二人で家を持つて稼いだ方がいゝぢやないか、僕は親爺がないんだから、君を實の親のやうにして孝行するよ、ねえ、その方がい[Pg 304]いぢやないか」と、香川は笑ひながら五月蠅く云ふので、帆田は物をも云はず、帳簿を抱いて應接所を出て行つた。
一時間後には帆田は草鞋脚絆の身裝をして、集金に出かけた。二時間後に香川は車に乗つて政黨本部や官省を廻つた。
この日帆田は一手柄をしたつもりで新聞の材料を持つて來た。云ふ事がボンヤリしてよく要點を得ないが、何でも本鄉の弓町邊で人殺しがあつたのださうだ。被害者は高利貸、殺害の原因は借金を催促したからだと云ふ。
「老爺さん、又夢でも見たのだらう」
「先月も公園で首くゝりがあつたつて知らせて來たが、あれでも社員と云ふ意識があるからだらう。態々知らせに來るだけ感心だ」
「首くゝりか人殺しか、何時かも下らない小泥棒の噂を持つて來た。老爺碌な事を[Pg 305]見ないんだね」
と、三面の連中はあまり取合はず、探訪をも特派しなかつた。
帆田は顏と足とを水道で洗つて、自分の居間へ上つた。擦れちがひに歸つて行く職工、入つて來る職工、階子段は傘の雫でズブ濡れになつてゐる。日は早く暮れて、電燈はジメ〳〵した疊を照らしてゐる。老人は例によつて帳簿調べをしようと思つたが、疲勞と腹の痛みに弱つて、晩餐も食はずに寢床へ入つた。何となく寢苦しい。それに晝の人殺し騷ぎが折々思ひ出したように胸に浮ぶ。
で、長い間眠つ醒めつした揚句、眞夜中頃人氣のないのを見て、藥湯を飮み、唯一の樂みの財產調べを初めた。
「老爺さん、淋しいだらう」と、香川は突如に入つて來た。酒の息を吐いてゐる。帆田はモグ〳〵口の中で云つたが、それは香川には聞えない。
「いよ〳〵工場も建增しをすることに决つたそうだから、この部屋も壞されるのだ[Pg 306]らう。そしたら老爺さんも何處かへ立退かなくちやなるまい、どうするつもりかね」
と、詰責するような調子で問うたが、老人は何とも答へない。心では只自分の樂みの妨害者を怒つてゐた。工場建增しの噂は時々老人の耳にも入つて來るが、それが別段刺激をも與へない。過去と將來はこの老人の衰へた頭を惱ますに足らぬのである。
で、香川の去つた後は、何か不安らしく、有合せの板片で入口を蔽うて眠に就いた。翌朝も雨で、顏を見ると人々は皆いやな天氣を歎じてゐたが、帆田は獨り默つて仕事に出た。衰弱せる上に氣候の不順に害はれて、顏は死人のようであるが、誰れも怪しむ者はなく、氣遣つてやる者もない。
香川は尙夜中に目の醒める癖が止まぬ。醒めると雜念が起る。雜念の中には帆田老人が織り込まれる。かの無用の財產は自分の手にあらば幸福に使へるのだとの思ひは夜々に嵩まつて來る。男一匹世の中に活躍するの地步もつくれるとも思はれる。[Pg 307]そして香川は老人の牡蠣のやうな凄い眼を暗中にも思ひ浮べるようになつた。二人は何となく關係があるやうな氣がする。宿世の緣が成立つてゐるやうな氣がするのであつた。
降るか曇るかの鬱陶しい梅雨期がつゞく。その中に老人は衰弱を重ねて、步むにも堪へかね、或晚階子段で倒れたなり、遂に床に就いて起き得なくなつた。
小使に粥を煑て貰ふばかりで、誰れにも顧みられず看護されず、殆んど存在をも認められずに、幽かな呻吟と昏睡とを續けてゐた。
只香川のみは半ば好奇心から、時々見舞つてやるが、老人は不快な目を向けて、少しも喜ぶ風はない。恨めしいやうな恐ろしいやうな顏をして、側へ寄られるのを厭がり、痩腕で防禦するやうな身構へをすることもある。或晚は夢心地で、「この野郞まだおれを意地めに來るか、もう親でないぞ、子とは思はんぞ」と叫んで、尙不明[Pg 308]瞭な聲で獨言を云つた。香川は理由は分らないが、何となく恐ろしくなつて逃げて歸つた。そして老人は職工などが幾ら周圍で立騷がうと、自分を冷かしてゐやうと、無感無覺でゐるが、香川を見ると面相が變つて來る。
「何故だらう」と、香川は怪しんで宇野に話した。
「何か惡いことをしたんぢやないか、金でも借りたんぢやないか」
「あの老爺が何で人に金を貸すものか、それに僕だけが多少同情してるんだから、感謝すべき筈だ」
「君の顏が老爺の息子にでも似てるんぢやないか」
「なあに彼奴の子は身體が痩せてゝ、親爺のやうな恐い目をしてるそうだ」
「兎に角君も酷い奴に見込まれたものだね」
「氣味の惡い老耄だよ」
香川はその夜から目が醒めると、暗中にかの凄い目を見て震えることがある。で、二三[Pg 309]日すると遂に堪へかねて、詮方なく外へ轉居した。
暫らく老人の事を忘れて、金の苦面に惱んでゐたが、或日不圖社の前で彼れに出會つた。病氣は治つたのか治らぬのか、尋ねても、齒の拔けた口をもぐ〳〵させた許りで分らなかつたが、風呂敷包を脊負うて、フラつく足で出て行つた。
香川は眉を顰めて顏を脊けた。
[Pg 311]
世間並
(一)
私は小半時間東片町の加瀨の宿を捜した。彼れとは今年になつて、一度も相會ふの機會がなかつた。又强いて會ひたくもなかつた。所が昨夜情熱家の豐島が私の家へ來て、加瀨の戀を語つて憤慨した。彼れの戀は熱烈でない沈痛でない、浮薄だ、キザだ、見得坊だ、柔弱だと罵倒を續け、終にお定りのバイロン、ハイネを叫んで歸つた。加瀨の戀々々々々、私の耳には多少面白く響く。それで急に訪ねて見たくなり、雨をも厭はず大久保から遙々來るには來たが、さて容易に家が見つからぬ。先頃久振りで、引越の通知を兼ねて手紙を吳れたけれど、彼れに用事はないと、そのまゝ反古にして仕舞つたので、番地は分らぬ。○○方と云ふ○○もはつきり記憶に留まつてゐない。只小山とか戶山とか山の字のあつたことは覺えて居る。それから
[Pg 312]「僕の宿を尋ねんとならば、垣根に沿える椿の花を目印となさるべく候」と、あの男相應の文句を書き添へてあつたことは覺えてゐる。
私は幾つも路次を通つた。傘の必要もない程の春雨が降つてゐる。下駄直しの皷の音、煑豆屋の鈴の音が、ゆるやかな空に響いてゐる。私は無理に焦つて尋ねる氣もなく、「會つたつて格別話しもないんだもの」と、通りへ突拔けやうとすると、往來安全の瓦斯燈の向うに眞紅の椿の花が鮮かに目に映つた。果して小山といふ門札が見える。狭い門が開いて、塗りの新しい車が道を塞いで、玄關先に橫つてゐる。
案内を乞ふ迄もなく、開け放した座敷に加瀨の立姿が見えた。光るやうなフロツクコートを着て、長い髮を奇麗に分け、頻りに衣紋を正してゐる。私は彼れを見違へる程であつた。
「さあ上り玉へ」と、彼れは靜に云つて、色の白くて目鼻の尋常な、しかし皮膚の硬つた顏に幽かに微笑を浮べた。
[Pg 313]「出掛けるのか」と、私は座敷へ通つて、中折れを被つたまゝ、椅子に腰を掛けた。
「ウン」と加瀨は輕く首肯く、小さい丸髷を結つた、背の低い痩身の、もう老婆と云つてもよささうな女が、緣側で山高帽子の塵を拂つてゐたが、私を見ると、「オヤ被入しやいまし」と、もう二三度も會つた人のやうに馴々しい顏をした。私はぢろりと老婆を見たばかりで、あまり構ひつけず、「何處へ行くんだい」と、再び加瀨に聞いた。
「菊坂まで、直ぐに歸つて來るから、待つてゐ玉へ、折角來て吳れたのに失敬だが、約束してあつて是非行かなくちやならんのだ」
「さうか、ぢや行つて來玉へ、僕は此處で晝寢でもしやう」
加瀨は老婆の手から帽子を執つて、「失敬」とゆるく云つたきり、姿勢正しく澄した足取りで玄關へ下りた。老婆は見送つてゐる。
私は腰掛けたまゝ動かなかつた。居室はフロツクコートの住人には不似合で、天井[Pg 314]は低く疊は茶色になり、床の間は漸く花瓶を載せるだけの深さしかない。しかし庭は割合に廣く、數種の椿の外、几帳面に沈丁花が植はつてゐて、濃い香を送つて來る。春日楓の鉢植も五ツ六ツ並んでゐる。家といひ庭といひ、先づ大久保の私の家と大差がないが、加瀨の財產は以前よりも遙かに殖ゑて、舊態依然たる私とは比較にならぬ。衣紋竿には糸織であらうか、いやに光つた着物が掛けてある。鼠色の縮緬の襦袢の袖口も見える。ふつくりした座蒲團も四五枚重ねてある。讀めぬ筈の英書が二つ、本箱にギツシリ詰め込まれ、テーブルの上には金蒔繪の卷煙草入、毛糸のランプ敷、鋏や耳搔の小道具まで、ちやんと揃つてゐる。
老婆は茶を汲んでテーブルに置き、散らかつた白縮緬の兵子帶、キヤラコの紺足袋などを片付けながら、「每日いけないお天氣で御座います」とか、「上野はもう咲いたで御座いませう」とか、頻りに話をしかける。
五月蠅いと思つたが、返事をせぬ譯にも行かず、よい加減にあしらつてゐると、老[Pg 315]婆はビスケツトを持つて來て、椅子の前に坐り込んだ。私は餘儀なく相槌を打ちながら、加瀨の變遷を思つた。老婆の話と自分の追想とがごつちやになつて、加瀨の面影が頭の中に動搖する。
彼れが上京したのは一昨年の春。同鄉の緣で暫く私の家に同居してゐた。普通の學資位出せぬ身分でもないから、何處かへ入學するのだらうと思つたら、少しもそんな希望はない。そして私の知らぬ間に先輩を歷訪して、その紹介で或女學雜誌の記者となつた。訪問には洋服
でなくては不便だと云つて、直ぐに有合せの三圓足らずの金で、白い小倉の夏服を造つた。私はさんざ冷かしてやつた。しかし彼れはにやり〳〵笑ふばかりで、何とも思はぬ。職業を得ると同時に、最早一人前になつたつもりか、私の家を出て植木屋の離座敷を借りた。持物は月々に殖
ゑて行く。國訛りの目醒ましく消えると共に、身體の泥も次第に拔けて行くやうだ。夏の末には絽の襦袢を着て柾目の下駄を穿く。私は彼れよりも五歲の年長者で、十年も東京に住ま[Pg 316]つてゐるが、身裝は彼れが半歲の進步にも劣つてゐる。で、會ふと目顏や口先
で揶揄つてやる。「いくら鍍金したつて肥桶は肥桶だぜ」と云ふと、「僕は虛榮を張るんぢやない、自分に氣持がいゝからだ」と落付いて答へる。雜誌社の者に聞くと、この男は社中第一の勉强家で、器用でもあり主任の信用も厚いさうだ。月給もずん〳〵昇つて行くらしい。彼れにはコツ〳〵六ケ敷敎科書いぢりをするよりは、雜誌
記者で飛廻る方が面白いのだ。成程生活のためにいや〳〵勤めるのとは異つて、足らねば國から送らされる身分の、二十二三の靑年の雜誌道樂なら面白からう。そして社の者は「加瀨さんは大變大人振つた人ですね、行も謹直だし、非常にしつかりしてる」と褒めるが、私の目には矢張歲相當のお坊つちやんだ。無口でマセてはゐるが、私には小憎ツ子と見える。甘い奴と見える。實際はさうでなくても、私自身に無理にさう思つて見る。向うから親しんで來ても、此方からは何うしても打解ける氣になれぬ。これが二三年來の私の性分で、又一種憐れなプライドとなつてゐるのだ。
[Pg 317]その後彼れは越前堀へ移つた。江戶趣味硏究のためか、綠雨の文集を買集めて熟讀しては氣に入つた文句に線を引き圈點を付し、餘白には頻りに感歎の辭を書き散らしてゐたのもこの時。女學雜誌の隅の方に三四行づゝの皮肉の書き出したのもこの時。私に當てこすつたつもりか、或號には「我を貴族主義なりと云ふものあり、我を平民主義なりと云ふものあり、或時は埃及煙草を吸ひ、或時は朝日を吸ふを哂ふものあり、彼等は變通の道を知らぬ徒輩なり、晴天にも足駄を穿いて步む人なり、我は月の初めには辨當に鰻や牛肉を食ひ、月の終りには饂飩か麺麭にて濟ます、この趣拘泥派の知る所にあらず」と書いたが、これなどが彼れの警句中の壓卷であつて、隨分一人合點の無意味の者が多かつた。
しかし越前堀移轉以後はあまり往來しない。學校生活をせぬ彼れは、眞味の友人の少いので、時々は私に向つて人懷かしい手紙を送つて來るが、私はあまり構ひつけぬ。で、暫らく彼れの發展を知らなかつた。
[Pg 318]
(二)
「加瀨さんは本當にお柔しいんで御座いますね、それにお若い癖によく何にでも氣がお付きなさいますし」と、老婆は指先で耳の後を撫で〳〵、世間話から加瀨の噂に移つた。
「暫らく會はん間に非常にハイカラになつた」と、私は獨言のやうに云つて、「加瀨は粧してばかりゐるんでせう」と、笑ひ〳〵聞いた。
「え、そりや大變で御座いますよ」と、老婆は少し乗出し、「油をつけたり、チツクで撫でたり、每朝お出掛けまで一仕事で御座いますわ、それに何であんなに髮をおのばしなさるんでせう、さぞお五月蠅でせうのに」と、女に有勝な皮肉な口付で云つた。
「ハイカラになるのも容易ぢやありませんね、一體加瀨は誰れの紹介でお宅へ來たのです?自分で捜したんですか」
[Pg 319]「何ね、私の甥があの方と同じ雜誌社へ勤めてゐますのでね、二三度宅へも遊びに被入つたのが御緣で、ついお越しなさるやうになつたので御座います。無人でとても人樣のお世話なんか出來ませんのですが、ついねえ……こんな窮屈な所で、さぞお困りだらうと思ひますのにね」
私は老婆の顏色を讀んで、「いや却て貴女の方で御迷惑でせう、この通人先生、そんなことにはお氣のつかん方だし、それに不愛相で氣の置ける男だから」
「いゝえ、どうしてお愛相がよくて、中々お話がお好きで被入しやる、十時頃からお茶を召上つて、每晚お話がはずむんですよ」
「そりや不思議だ、何を話すんです」
「あの方は何でもよく御存知なんですね、頭の物から足の裏まで、何にでもよく目がおつきなさいます」
「あれがそんな話をするんですか」と、私は少し驚いた風をすると、老婆は乗り出[Pg 320]して、
「えい〳〵、私逹よりもよく御存じで被入しやる、櫛は小形が流行るの、羽織は桔梗納戶が色合がいゝのと、そりや驚いてしまうんですよ、一昨日の晩も宅で歌留多を取とりまして、娘さん方が四五人被入しやると、あの人には何が似合う、この人には何が似合うと、一々お見立てをなさるんですよ」
「雜誌にでもあるんでせう」と、私は笑つて、少し碎けた口振りで「加瀨に色女があると云ふぢやありませんか、」と問うた。
「何だかそんなことを甥が申して居りますがね、」と、老婆は窪くぼんだ目に微笑を湛えてゐる。
「誰れでせう、」
「御自分ではいろんな事を有仰るんですから、見當が付き兼ねますが、何でもお樂といふ女に一番御執心のやうで御座いますよ、下谷に居ました時分から娘のお友逹[Pg 321]でちよい〳〵宅へもまゐります、大變なハイカラで、讀み書きも可成り上手ださうで御座いますよ、先日も加瀨さんが僕はあゝ云つた肌合が好きだと有仰るから、ぢやお貰ひなすつたらと申しますと、さうさ何うしやうかと考へて被入るのです」
「ぢや、まだ女が出來たと云ふ譯ぢやないんですね」
「えい〳〵、まだこうと定つてるのぢや御座いますまいよ、尤もね、加瀨さんの事ですから外にどんなのが出來てゐるのか、ちつとも存じませんけれど」と、老婆は息を吐き、「何しろあの方ですから」と、低い聲で無意味な事を云つて、兩手を膝の上で揉みながら、「何時かも甥とお酒を召上つて、お話がはずんだ時に、僕あ女を惚れさせて廻るのが面白いと有仰るのです、何でも品川にも銀座にもお目に留まる者があるそうでしてね、甥はよく戯談に、僕が一緖に行かなくちや幕が開かんのだから厄介で仕方がない、僕あ丸で若樣のお幇間のやうな者だ、無給金で、加之時々は持出しまでして、こんな下らないことはないと申すんで御座いますよ」と、さも[Pg 322]面白さうに云ふ。次の室では娘がクツ〳〵笑つて居る。
「さうですかねえ」と、私は冷淡に云つて、目を轉じてテーブルの上のバイブルを飜して、老婆にはあまり耳を貸さなかつた。
しかし老婆は問はず語りに加瀨の噂――頓間な江戶ツ子振り、辻褄の合はぬ裝飾方、變梃な田舎言葉の丸出しの柔しい惡罵――を止めなかつたが、やがて臺所で魚屋の聲のするのを機會に立つて行つた。
加瀨は容易に歸つて來ぬ。私は日曜一日待甲斐のない人を待つて過ごすのが惜くてならぬ。歸らうかと立上つたが、又思ひ返して疊の上に橫になつた。雨垂れが落ちては又落ちてゐる。新たにいゝ香ひが庭から吹きつける。後では車井戶の音がギイ〴〵と聞える。私は眠くなつた。氣が緩んだ。すると、ふとお靜も憎くないなと思はれた。私が寢卷のまゝ顏を洗つてゐると、派手な絣の道行を着て、勝手口から傘をすぼめて入つて來た彼の女の可憐な姿、身體が華奢で髮が濃くて、島田の重みに[Pg 323]堪へぬと云つた風に、首垂れ勝のその顔付。こんなことが此頃の私には珍らしく目に浮んだ。しかし直ぐに自分で自分を嘲つて見て、間もなく常の心になつた。
やがてよい氣持で眠入つた。
暫くして自分の家にゐる氣で、細く目を開けて伸び上ると、加瀨は緣側に膝を抱いてニコ〳〵してゐる。
「よく眠てるね、どうしたんだ、昨夕夜更しでもしたんぢやないか」
「もう何時かね」と、私は目をこすり〳〵臺所へ顏を洗ひに行つた。老婆と娘とが膳立てをしてゐる。娘の顏立は老婆に似て、左程美しくもないが、年頃だから皮膚が艶々しい。私は娘の手から西洋手拭を借りて顏を拭ひながら、偸むやうにして相手の顏を見た。娘は不快な顏をして橫へ向いた。子供の時から私の目付は人を馬鹿にしてゐると云はれてゐたが、殊にこの頃は毒氣が加はつて來たのか、何氣なしに見てさへ相手によつて、薄氣味惡く感ずるさうだ。ましてこの頃の私は穩やかに柔[Pg 324]しく人に接することが出來ぬ。冷笑するやうな、蔑視するやうな、腹の底まで見拔いてやるぞと云つたやうな氣持になつて喜んでゐる。
私は緣側へ戾つて、「この家は一體何をしてるんだ」と小聲で聞いた。加瀨は袂から淸心丹を出して舌に載せ絹手巾で赤い唇のあたりを拭き〳〵、
「これでも昔はちよつといゝ旗本だつたさうだが、今ぢや親爺は元町の女學校の會計をしとる、月給は極く僅かだが、多少家に財產があるから、氣樂に暮しとるやうだ」
「家内は三人限りかい」
「うん、娘が跡取りで養子でもするんだらう」
「そんな大事な一人娘の側に、君のやうな美男子がゐちや危險だね」
「馬鹿な」と、加瀨は幽かな聲で云つて、ニヤ〳〵笑ひを續ける。
「しかしこんな家にゐちや窮窟ぢやないか」
[Pg 325]「別にそんな感じはしない、却つて家庭的で居心地がいゝ」
「だが、越前堀の江戶趣味から退化したぢやないか、僕は君は早晩藝者屋の長火鉢の前に坐る男だと思つてゐたんだが、矢張山の手の野暮臭い家が君の柄に相當してるんかね」
「下町は衞生に惡いから」
「うまく言譯するね、しかし君のことだから何か竊かに理由があるんだらう」と、私は卷莨入をテーブルから下して、加瀨の側に橫になつて煙草を吸ひながら、「君も東京へ來てから大分嗅いで步いてるが、今に鼻も足も疲れてしまうぜ、君の鼻は銳敏な方ぢやないがね、それでも君の親爺のとは異つてるから、」
「何だ、謎のやうなことを云つて」と、加瀨は淸心丹の香ひを吐いて、相變らず氣樂な顏で微笑してゐる。
「今に謎の解ける時が來る」と云つたきり、私は口を噤んだ。加瀨も默して只庭を[Pg 326]眺めてゐたが、やがて何を思つたか尺八を取つて吹き出した。顏は少し紅味を帶び、長い前髮を震はせ、白い指先を輕く鮮かに動かし、私をば相手にせぬやうな風で勝手に吹いてゐる。これはこの男の癖で、心では私の訪問したのを喜んでゐるのだが、さて話すこともなく、打解ける手段もない。で、私の方からそれ相應の話題でも持出さぬ限りは、詮方なしに、主人は主人、お客はお客の態度を執るのだ。しかし彼れの心づくしは何時ものやうに食卓に現はれてゐる。
老婆と娘とは甲斐々々しくチヤブ臺を運び込んだ。いろ〳〵の御馳走が一杯に並べられた。ビールさへ添うてゐる。
加瀨は尺八を下へ置き、「サア」とコツプを私の前へ出して、置つぎをした。私はそれを尻目に見て、
「君は尺八が甘くなつたね、續いて稽古をしてるんか」
「いや別に稽古もせん、退屈すると出鱈目に吹くだけだ。」
[Pg 327]「君の尺八を聞くと思ひ出す、君は上京の時に手紙を寄して、⦅一管の笛を携えて都の花を尋ね申すべし⦆と云つてゐたぢやないか、此頃はどんな花を尋ねてる、君は田舎にゐた時分から風流の嗜みがあつたさうだし、僕等とは異つて五官が發逹しとるんだから、東京の味も少しや味はつたらう」
「それよりや魚でも食べ玉へな」と、加瀨は不味さうに二三口ビールを啜つて、兩膝を抱いて、私を見てゐたが、「君は矢張學校へ出てるのか」と、分り切つたことを聞く。
「厭でも仕方がないからね、月給三十五圓の先生で、朝寢は一週に一度しきや出來ん、憫れむべき生涯だらう」
「厭なら止して何か面白い仕事を求めりやいゝぢやないか、世間は廣いのに」と、加瀨は不愛相に云ふ。聲も態度も大人振つてゐる。私は暫らく無言で二三の皿を平げて後、低い聲で何氣なく、
[Pg 328]「君もハイカラのお樂とか云ふ女を知つてると云ふぢやないか」
「それがどうかしたのか」と、加瀨は少し頰を赤くした。
「何、どうもしないが、君があの女に惚れとると云ふから」
「馬鹿あ云つてる」と、加瀨は澄してゐる。
「いや僕は眞面目だ、僕には戀の經驗がないが、君は年少にしてその道の硏究者だから、よく色んなことを知つてるだらう、少し聞かせて吳れ玉へな」
「硏究も何もないぢやないか、戀は戀だから」と云つたきり、加瀨はあまり話に身を入れぬ。既に醉つてゐれど、私に向つては妙に腹帶を締めて、他所行の言葉ばかり使つて本音を吐かぬ。そして私の不思議な好奇心は、ます〳〵募る。この男を攻め落して、見得も自惚も搔き消し、表面でも腹の中でも、眞に萎れ返らせて見たい。一度でも身の腑甲斐なさ、世の味の苦さを感じさせて見たい。
私はこんなことを思ひながら、口では途切れ〴〵に何の興もない短かい會話を取り[Pg 329]やりして、午餐を終つた。跡片付が濟んで又緣側へ出て、暫らく前のやうな平凡な對話をしたり、雨の音に心を澄ませてゐると、
「やー、お客樣か」と、小柄な男が帽子を被つたなり、ニコ〳〵入つて來た。
「小山君、昨夕はどうだつた」と、加瀨は私に對する時とは打つて變つて、快活な口調で云ふ。
「えゝ、又やられたよ、運命の神に見放されたのだね」と、薄唇の大きな口を捻ぢてハツ〳〵と笑ひ、「どうだい、歌留多は、今夜二三人美人を招待しといたよ」と云つて後を顧み、「楠ちやんお茶をお吳んな」と叫ぶ。この男眉が短く首が長く、一寸しやくつた顏は見るから罪がなさゝうだ。加瀨の紹介を待たずとも、老婆の甥と云ふことは分つてゐる。私とも直ぐに懇意になつた。
「貴下も晚まで遊んでゝ歌留多をやつちやどうです」
「僕は歌留多を知らんから駄目です」
[Pg 330]「いゝぢやありませんか、加瀨君だつて極めて下手なんですもの、隨分美人が來るから見てゐらつしやい。加瀨君の御馳走で美人見物をするだけでも得ですからね、これで此頃は每晚のやうに歌留多をやるんですが、實は歌留多を餌に女を釣るんです」と、無遠慮な聲で喋舌り立てた。
「馬鹿云つちやいかんぜ」と、加瀨は障子に頭を持たせ苦笑した。
老婆と娘も菓子皿や茶盆を持つて來て、それを機會に團樂の中に入つた。皆んな笑顏をしてゐる。小山は頻りに歌留多仲間の品評を始め、一座はこれに相槌打つて、暫らく陽氣に賑はつた。加瀨もこれ迄東京に孤獨の月日を送つてゐたのだから、この一家の温かい空氣に浴して、さも悅しさうだ。
空はます〳〵暗くなつて、雨は止みさうでない。外出も面倒であり、訪ぬべき人もなく爲すべき用事もなければ、私は引留められるまゝ、遂に晩餐の御馳走にもなつた。無駄話も聞厭いた。加瀨の尺八小山の都々一も聞厭いた。私を煙たさうにして[Pg 331]ゐる娘の顏も見厭いた。やがて一人二人若い女や男が集まつて來たが、加瀨は新顏を見る每に嬉しさうな風をする。そして二つの明るいランプは、大勢の騷ぎの中心となつた。
(三)
私は歌留多の群に入らず、只傍觀してゐた。白い手と黑い手の忙しく入亂れるのを超然として見てゐた。一座の中最も熱心の乏しいのがお樂で、老婆の豫報した通り、派手な縞の銘仙に八丈の羽織を着てゐる。廂髮だがハイカラ風でもなく、他の女共に比べると顏付が何となく意氣に見える。お納戶の襦袢の襟が白く首筋に喰ひ入つた加減が馬鹿に色氣がある。負けても左程口惜しがる風はない。そして加瀨と敵味方で向ひ合つて、加瀨の方から奪掠しかけても、敢て爭はんともせず、仲間から小言を云はれると、「だつて加瀨さんがズルイんだもの」と甘えた口を利く。加瀨は口元で微笑しながら一生懸命。
[Pg 332]二三番の勝負あつて、中休みとなり、皆んなが息を吐いた。私は一人隅の方で欠伸をした。そして加瀨とお樂とは交る〳〵見てゐたが、只加瀨がお樂の方を見る時は上目を使ふ氣味があるだけで、別に戀中と云つた風の素振もない。
小山はお喋舌りの間々に加瀨を冷かしてゐたが、不意に藝競べを主張して、
「お樂さんの長唄も暫らく聞かんから今夜は是非拜聽したい、」
といふと、加瀨も盛んに賛成する。否だと云ふ者は、小山が下駄を隱して歸さんと强迫して、一座五六人殘らず特意の藝を出した。宿の娘お楠の常磐津、米屋の娘の義太夫など、何れも大喝采。遞信省の女判任官のお杉女史は獨りで浮れて、小山の催促も待たず、肩を聳かし下唇を突出して、「死んだと思つたお富さん」と誰れかの假聲を使つたが、皆んなに笑はれて極りが惡そうに口を噤んだ。
それから小山の卷舌の端唄、お樂の長唄「宵は待ち」があつた。お樂のは本物だ。一座鳴りを靜め視線を唄ひ手の顏に集めて聞いてゐた。加瀨は首を傾げて恍惚とし[Pg 333]てしまう。白粉臭い生若い女の香ひが漲る狹い部屋に、艶つぽい聲が柔かに耳を掠めて通る。見るから加瀨は極樂淨土にゐるようだ。小山は駄洒落の連發で女連れを笑はせ、餅菓子と蜜柑とで、主客は陶然と醉心地になつて來る。
「何時もこんな馬鹿な眞似をして遊んでるんか」と、私は突如に加瀨に問うた。浮かれてゐる連中は一時に私の顏を見た。
「面白いぢやないか、君の家でも時々やり玉へな、僕等が大勢引連れて行かう」と、加瀨は一座の棟梁氣取だ。
「須崎(私の名)さんだけは、まだ何も藝をお出しになりませんね、お突合ひに一つお聞かせなすつちや如何です」と、老婆は私を顧みた。小山も加瀨も左右から手を執るやうにして勸める。
「そんなふざけた眞似が出來るか、しかし是非僕のが聞きたけや、加瀨君の親爺がよくやる權兵衞が種蒔きの踊でもやらうか、醉ふと素裸かになつて腰を振つてやつ[Pg 334]てたのを、僕も覺えとる。君も幼い時分によく親爺の眞似をしとつた。ねえ、さうだらう」と、私が云ふと、加瀨は默つてしまつた。
「だが僕だつて長唄ぐらゐは出來る。お樂さんでも三味線を彈いて吳れゝば」と、私は厭な思ひをして云つて、前へ乗り出した。もう二三年にならうか、私はお靜から戯言半分に「越後獅子」を習つたことがある。あの時分でも音曲は好きな方ではなかつたが、お靜の口眞似をしたり、笑つたり笑はれたりするのが嬉しかつた。今ではそれを思ひ出しても不快だが、小山の周旋で、三味線がお樂に押付けられたので、詮方なくお樂と並んで、うろ覺えの一くさりを唄つた。調子もしどろもどろである。加瀨は少し驚いた風で、
「君は何時習つた」
「不思議だらう、まだ十八番があるんだ。そりやこの次つぎにしやう、何なら近々僕の家で演藝會をやるから皆んなで來玉へ、お樂さんも三味線を持つて」
[Pg 335]「そりや面白い、是非おやんなさい、私が周旋役になるから」と、小山は頻りに勸めた。
(四)
再び歌留多が初まつたので、私は退屈し切つて、一人暇を吿げて薄暗がりの冷たい戶外へ出た。そして電車に飛乗つたが、直ぐに大久保へは歸らなかつた。
數十分の後には傘を擔いで、土州橋の上を步いてゐた。中洲の方は小雨に煙つて、提灯の光が空を飛んでゐる。足下の荷船は晝の汚い姿をかくして、夢のやうに淡く水面に浮び、濕つた光がチラ〳〵して、寢呆聲が洩れて來る。橋を渡ると早足に右へ曲つて、玄關の暗く二階の燈火の花やかな家へ上つた。私は一年近くこの家へ通つてゐるのである。
安逹が原の鬼婆から毒氣を拔いたやうな老婆は私の顏を見ると、齒を剝き出して、「貴下新奇なのが出ましたよ」といふ。これがお定りだ。老婆は私に對する骨を知[Pg 336]つてゐる。只「新奇だ」といふ。どんなのだらう。昨年一年、今年の今迄私の注意を惹き、心に柔しさ温かさを覺えるのはこればかりである。階子段を踏む足音廊下傳ひの衣摺れの音、障子の開く音、私はそれを聞いてゐる時にのみ世に生甲斐を感ずるのである。美くしい眉滑かな肌に魂が盪けるのではない。優しい言葉色つぽい素振りに胸が湧立つのではない。只「珍らしいの」「新奇なの」を待設けては、乾き行く心を濕ほさうとするに過ぎぬ。
私は上京後七年間、豐かならぬ學資で學問をした。卒業後は敎師をしてゐる。交友も多くはなく、自分の出入し目睹してゐる社會は廣くはない。しかし最早努力して榮逹を計る氣は微塵もない。高名な人と伍して世に名を唄はれようと希ふ心も更にない。心を許す人もなければ、他人に心許されようとも思はない。知友の中には私を「落付いた確かりした男だ」と評する者がある。又「冷酷無情な男だ」と評する者もある。有望な靑年か愚昧な男子か、他人のお世話を待たずして、自分で自分[Pg 337]を知り切つてゐるのだ。圖拔けた天分もないが、努力すれば並の人には負けぬと確信してゐる。處生の法ぐらゐ心得てゐる。只その煩はしさが厭だから見合せてゐるのだ。
凡てが煩はしい。そして友人の落魄も榮華も憐れとも感ぜぬ羨しくも思はぬ。昨年から引續いて兄が死に叔父が死んだが、それすら私には木の葉の散つた位の感じをしか與へなかつた。
明日の私はどうなるか、今の私はこんな風で死運の來るまで生きてゐる。
(五)
「あれは如何でした」
「さうだね、唇の皮が硬い」
「隨分此頃出ましたから、せい〴〵目をつけときまして」
私は老婆に見送られて外へ出た。糠雨が身體に降りかゝれど、所々雲の剝げて、澄[Pg 338]んだ靑空が現はれてゐる。私は再び土州橋を渡つたが、「明日は天氣だ」と思ふのみで、外に何をも頭に浮べなかつた。そして電車に乗ると手を拱き目を瞑り頭を窓にもたせ、半醒半眠で終點に逹し、月を踏んで、人氣の絕えた大久保の宿へ歸つた。明日の勤めを思うて、直ぐに寢仕度をし、二三の郵書を見たが、その中に故鄕からの手紙もあつた。父は老い母は目を病み、弟は小賣商をして一家僅かに口を糊してゐるので、救助の願書の絕えた月はない。今月のは殊に長い。私は卷紙の半ばを讀まぬ中に、眠氣さして堪へられぬので、それを机に廣げたまゝ床の中へ入つた。
翌朝下女が雨戶を開ける音を幽かに聞きながら、起きもやらず寢返りして、尙ウト〳〵してゐたが、その間に珍らしく故鄕の夢を見た。――兄弟三人裏の畑に出てゐる。樹木の少い丘から斜に麓まで畑になつてゐて靑々と麥は波を打ち、畦には蓮華草が赤く緣取つてゐる。日は眩しい位照つて居る。兄は被頰して汗ばんだ手で畑を耕し、私は弟と紙鳶を飛ばした。風箏が靜かな空に氣持よく鳴つて、赤い繪具で[Pg 339]塗つた紙鳶の影は小さくなる。私は興に乗つて畑を踏み丘へ上り四方へ驅り廻ると、弟は後から喘ぎ〴〵追うて來る。やがて私は手に纏うた糸を有る限り手繰り出したが、運惡く糸は木の枝
に引掛つて如何にするも離れない。その間に紙鳶は糸を切つてフワ〳〵空を飛んで行く。私も弟も兄も仰向いてその行衞を眺めた。――目醒し時計の鳴る音に驚いて夢は消えた。歸國每に亡兄は私に向つて、「今の田地さへ荒さなければ、家のものは生活に困りやしない、お前は學才があるんだから、家の事は心配せんで勉强して早く出世して吳れ」と云つて、自身は死際まで鍬を離さなかつた。この手紙によると弟は此頃反物を脊負つて近村を廻つてゐるらしい。そして一家揃うて私の噂さをしてゐるとある。私も亦絕えず故鄕の家族を思つてゐることと向定めに定めてゐる。私は手紙を座右の反古籠に入れて、心淋しく肌寒く感じた。
(六)
[Pg 340]この日は宿雨晴れて、敎員室は花見の噂が盛んであつた。日課を終つて家へ歸り、和服に着替へてゐると、豐島と云ふ私の所謂情熱家が訪ねて來た。同鄕で同じ中學にゐた男で、加瀨がこの家に同宿してゐた頃、職を失つて轉がり來んだこともある。醉はぬ時は顏色靑く、言葉も少く、目は潤るんでゐるが、少しでも醉ひが廻ると、悲憤慷慨滿心の血が湧き立つて、自身一人で世界と角力でも取る勢だ。彼れの所謂「お利口連」を罵つて淚を浮べることもある。加瀨などは頭から「馬鹿野郞」「靑二才」「僞善者」の百萬遍を浴せかけられる。
今日は七分の醉だ。格子戶をガラリと激しく開けると、「大將居るか」と怒鳴つて、帽子を投げて、座敷の眞中に胡床を搔いた。
「大分元氣がいゝね、ちつとは儲かつたんだらう、おれに金でも吳れに來たのぢやないか」と、私は帶を締めながら相手を見下して云つた。
「馬鹿云へ、金なんかあるもんか」
[Pg 341]「宿は矢張下谷の天井裏か」
「馬鹿云へ、とつくに轉居して今は四谷の庭の廣い家にゐる、近いから學校の歸りにでも寄れ、アブサンを呑ましてやらあ」
「さうか、モー天井裏にゐないんか、ぢや少し堕落した方だね、僕は君があの二階にゐるのを悲しむよりも寧ろ祝してゐたのだがなあ、鼠の糞や蜘蛛の巢の中で、蠟燭を點火して文章を書いてるのを見ると、僕あ拜みたいやうな氣がした。昔の天才や義人によくある例だからね。」
「うんにや僕はもう方針を變へた、どんな卑屈な眞似をしても金を儲けるつもりだ、世の中は俗物ばかりだから、これまでのやうにしちや馬鹿を見るからな、もう主義變更だ。」
「しかし君はどうして金を儲ける、何處から見たつて素質はないぢやないか、君が俗物になるのは加瀨の頭が五分刈になる時代だらう」
[Pg 342]「加瀨なんかゞ」と、豐島は投げつけるやうに云つて、「あんな男で八方に色女が出來るんだらうか、馬鹿野郞に」と叫んで、唾を迸しらす。
「そうだねえ、僕や君にや待てども〳〵雌猫一匹寄つて來ないんだからね」
「つまり何だよ、君や僕は自分を屈して優しくなれんから駄目なんだよ、お互ひに金も出來にや女も出來ん、けれど僕あこれからやる、戀もするし金も取る、君もさうしろ、その方が得だもの、どうせ利口な奴等にや僕等の心は分りやせんのだから、」と豐島は毛の濃い腕をまくつて、赤く肥つた頰をこすり上げつゝ、充血した目を瞬たく。
「僕もせい〴〵心掛けやうよ、しかし君は今何をしとる、夜學校の方は革命論か何かやつて止めたそうだが」
「講義錄に關係しとる、大著述にも着手しとる、も少し餘裕が出來たら、新運動も初める、まだはつきり言ふ譯に行かんが、筆を劍にして口から焰を吐いて、惰眠を[Pg 343]貪つてる今の社會を震動さすんだ、君も我黨の士だから、その時や片端擔つて吳れ」
「少し矛盾だね、さつきにや金儲けの計畵をしたぢやないか」
「馬鹿云ふな、僕等はこんな薄のろい世に我慢出來んのだ」
「同感々々、早くその活劇を見せて吳れ、僕は君の「馬鹿野郞」の聲が日本國に地響することを望むんだ」
「屹度やる〳〵」と、豐島は頰杖ついて、何をか考へてゐたが、やがてぶつ倒れて鼾をかき出した。裾の摺り切れた袷から毛脛を出し足袋を穿かぬ足は塵にまみれてゐる。私はぢつと見てゐたが、やがて毛布を出してそつと肩にかけてやつた。で、彼れが前後を忘れて何かいゝ夢を見てゐる間に、私は學課の下調べをしてゐた。
「お客樣はもうお歸り」と、緣側の障子の破れ目からのぞいた女が、「あれ寢てゐらしつて」と呟いた。
私は障子をそつと開けた。お靜が立つてゐる。少し靑ざめた顏に長い眉と黑い眼、[Pg 344]肉付の不足の頰に、鼻のみが高く鮮かに刻まれた、左程美しくない女だ。しかしその哀れつぽい樣子が一二年前の私には悅しかつた。
「お花見にはゐらつしやらないの」と、お靜の癖として一寸口を歪めて笑つた。私はそれには答へず、半ば書物を見ながら穩かに、
「まだ日本橋へ行かないんかね」
「もう歸らなくちやならんのですけど、身體がよくなつたら明日にも來て吳れなくちや困るつて、今も手紙が來たのですけど、私もうあんな騷々しい所は厭き〳〵しましたから」と萎れた聲で云つた。顏にも萎れた色が動いたのであらうが、私はよく見なかつた。
「だつて仕方がないぢやないか、行かなくちやお母さんが承知しないんだらう」
「だつて私厭で〳〵、とてもこの上半歲も辛抱しちやゐられませんもの」
「さうかねえ、しかし世の中はどうしたつて氣樂で通れりやしないんだから、まあ[Pg 345]若い中に我慢して苦勞するさ、お靜さんなんか女はよし氣立もいゝんだから」と、私は辭書を引き〳〵、ちらと顏を見た。女の目は早や濡んでゐる。
「そんな酷いことを云つて」と、聲は四邊を憚つて、顏付で不平を訴へる。
「何故、お靜さんなんかこそ、出世する運を持つてるぢやないか、去年からお母さんが來る度に自慢してゐたよ、大商人の家へ奉公して、大變お氣に入つてるんだつて、今でも家の娘が〳〵と五月蠅程云つてるよ。」
近所ではお靜をさる穩居の妾であるとか、怪しい商賣をしてゐるとか蔭口を利いてゐるが、私はそれを確かには信じてゐない。二三年前にこそ一時心の浮立つて、忍び〳〵に弄むでは、世の中へ出初めの淋しさ苦さを忘れたこともあつたが、今では初戀の思ひ出も只人事のやうな氣がしてゐる。お靜はさうは思つてゐない。私にも昔の心持が繰返すものと思つてゐるのであらう。
「お母さんは私が目を廻して死んだつて、何とも思つてやしないんですもの、人中[Pg 346]へ出して氣骨を折らせてお母さんは私をどうしやうと思つてるんでせう、先日もお話したあのことでね」と、お靜は首俯いて、淚ぐんだ聲をする。
「おい〳〵先日の話はもう願ひ下げだよ、耳にたこの出來る程聞かされたんだからな、そんなことを云つてクヨ〳〵しとるから病氣に取付かれて、靑くなつてなくちやならん、下らないぢやないか、それよりや早く手賴りになる男でも捜し出して、面白い日を送る方がいゝぜ、一昨年だつたか、日本橋へ行く前にや大變元氣のいゝ事を云つてたぢやないか」と、あの時お靜が私との關係はけろりと忘れたやうにして、寶の山へでも入る氣で、日本橋とかへ旅立つ時分の得意の樣を思つた。
お靜はシク〳〵泣き出した。で、今にも一昨日のやうに、怨んだ言葉自棄になりさうな文句で、私の心を動かさうとするだらうと待設けながら、書物の頁を飛ばせてゐると、ザーツと手水鉢に水を入れる音がした。頭を上げると下女がバケツを持つて、不思議さうにお靜を見てゐる。
[Pg 347]樹木も草花もない狹い庭は蔭つて、隣りの二階の壁にのみ冴えた光が止まつてゐる。下女は勝手へ廻りながら、まだ振返り〳〵見てゐる。
豐島も目を覺ました。片頰に赤く疊の形を殘して、拳で目をこすつてゐる。
「お靜さんぢやあ明日の晩にでもゐらつしやい」と、私は外方へ向つて笑顏で柔しく云つて障子を締め、
「もう醒めたかい、茫然してるね」
「うん」と起上つて、帶をキチンと締直し、一つ欠伸をして、「さあ歸らう」
「まあいゝぢやないか、何か僕に用事はないんか」
「うん、用事もあるんだが、又二三日中に來よう、これから本鄉へ行くから、加瀨の家へも寄るかも知れん」
「あまり彼奴を意地めるなよ」
豐島は外に急用でも控へてゐるやうに、急いで門を出た。後に「敷島」の袋を置忘れ[Pg 348]てゐた。袋の中には煙草が二本と白銅が二つ入つてゐる。
私はこの夜故鄕の弟への手紙を書いた。中には「出來るだけの事をして、それでも食へなければ仕方がない、一家擧つて乞食になつて諸國を流浪しやうぢやないか、おれもその仲間になつてもよい、何をしても一生だ」と、筆の拍子でこんなこと迄書き添えた。
(七)
私は學校の生徒に人望のある方でもないが、敢て不評判でもない、職務に精勤する方ではなく、病と稱して缺席することも多いが、免職される程怠けはせぬ。增給も覺束なけれど、これで當分食ひはづしもないから不平を云ふ必要もない。衣食の慾は少く、外に娯樂を求めるのでもない。そして豐島などの二三の友人がちよい〳〵訪ねて來るので、無聊で苦む時も少い。此頃は豐島の外に、加瀨の宿で會つた小山が屡々顏を出すやうになつたが、この新奇な友人は初對面の折からスツカリ私の氣[Pg 349]に入つた。此方から碎けて話しかけると、直ぐ私の懷に入つて來る。その呑氣らしい容貌と心、微塵も苦味辛味のなく、ポカンとして無駄口を利く工合が面白い。で、「君は話せる、學校の先生連中は元よりだが、豐島だつて加瀨だつて娑婆臭くつて鼻持ちもならん、君は流石に江戶ツ兒だ、社會を咀つて革命を唱へるでもなし、加瀨のやうに見得坊でもなし」と感服すると、小山も多少得意になつて、「加瀨君のやうにしてちや、さぞ氣骨の折れるこつでせう」と笑ふ。
或日の正午過ぎに上野を散步してゐると、小山が縞の羽織に袴を着け、不似合な山高帽子を被り、少し仰向いて口を開け、左の手で突袂をして廣吿隊の後から澄まして步いて來たが、その樣子が甚だ面白かつた。私は呼止めて、一緖に夕方まで遊び暮したが、彼れは女の步き振りから、その心理上生理上の批判を下すと云つて、左右を顧みては、毒のない毒語を放ち、
「巧いもんでせう、加瀨君にもよく敎へてやるんですよ、僕が多年の經驗から歸納[Pg 350]した結果ですから、一々的中します」
と自慢した。會ふ度每にお樂の身の上も加瀨の秘密も、面白さうに話して、多少のお景物まで添へる。「お樂の事は、もう加瀨先生がちやんと一人で呑込んでる、おれが見込んだらどんな女でも厭とは云はせんと、自分で確信してるんです」とか「貴下のこともよく例に引いて、あの男はとても女に好かれりやしないと云つてる」とか、調子に乗つて喋舌る。
この男に連られて、私はお樂の家へも行つた。お樂は從姉と二人で徒士町の或小役人の二階を借りて自炊をしてゐる。遞信省の女判任官で十二三圓の月收があるらしい。
私の訪ねた時は、お樂は役所から歸つて、袴を疊んでゐた。部屋は廣くないのに、簞笥や鏡臺や針刺や、諸道具が一通り揃つてゐるのだから、非常に窮屈だ。小形の低い机の上には加瀨編輯の婦人雜誌と貸本屋の小說が載てある。
[Pg 351]小山は餘程懇意だと見えて、いきなり胡床を搔いて、「おい、お樂さん、今日は加瀨の代りに須崎先生を連れて來たよ、御馳走しないか」と云つた調子、お樂はあまり馴々しくもなく愛嬌も賣らず、初々しく私に挨拶をした。私はろくに口も利かず、只小山の喋舌とお樂の擧動を注目してゐた。この女田舎には兩親があるのださうだが、何故歲頃になつて結婚もせず、こんな風に暮らしてゐるのだらう、加瀨が愛してゐると云つて、それがどの位進行してゐるのだらう、小山から聞いたゞけでは腑に落ちぬことが多い。
小山は窓の閾に腰を掛け、膝を重ねて貧乏搖ぎをしながら、
「今夜姉さんは何處かへ行つたのかい」
「えゝ、一寸道寄りしたのよ、もう歸るでせう」
「歸つたら皆んなで散步しようか」
「私散步なんか嫌だわ」
[Pg 352]「お樂さんは消極的だからいかん、もつと活潑にハキ〳〵しなくちや駄目だよ」
「さうですかねえ」と、お樂は不愛相に云ふ。そしてお茶を汲んで、後は几帳面に座つて身動きもしない。
「今日はお樂さんはどうかしてるね、加瀨を連れて來んから不平なんぢやないか」と、小山は冷かすやうに云つたが、お樂は何とも答へず、少し俯首いて、膝の上で指先をいぢつてゐる。
「過日加瀨と何處かへ散步したさうだね、あの時お樂さんがこんな事を云つてたつて、皆僕に話したよ、それでね加瀨は近々家を持つと云つて頻りに準備をしとる。お樂さんのためにも祝すべきことだね、二階借りをしてお役所通ひなんかしないでもいゝんだから」と、小山は相手の顏色には無頓着で云ふと、お樂はツンとして、
「小山さんは何時も人を馬鹿にしとるのね」
「何故、僕はお樂さんには敬意を拂つてるから、その幸福のために盡力してるんぢ[Pg 353]やないか」
「もう澤山!」
「ぢやその話は止そう」と、小山は私の方を向き、「君、近々大久保であの會をやらうぢやありませんか、その時やお樂さんも是非お出でよ、この人の家で演藝會をやるんだから、僕が一緖に行きや姉さんも何とも云やあしないだらう」
「私もう何處へも行かないわ」
「だつて須崎君の家ならいゝぢやないか、この人は僕にも加瀨君にも親友だし、大變な學者だから。こんな恐い面をしてるけれど、これで氣の輕い面白い人だよ、時々遊びに行つて御覽、二人で長唄でも唄つて陽氣にやるも、加瀨君と差向ひでニヤリ〳〵笑つてるよりやいゝよ」
私は退屈して苦笑して、「もう歸らうぢやないか」と小山を促した。
小山は容易に歸らうともせず、「姊さんはどうしたのだらう」と氣遣つてゐたが、暫[Pg 354]らくすると無斷で階下へ下りた。誰かと高聲で話してゐる。
私は窓際へすり寄つて、正面にお樂を見た。以前加瀨の宿で見た時よりは、少し色が惡く目もあの時ほど冴えてゐない。
「小山君はよく來るんですか」
「えゝ、一日隔き位に入らつしやるんですわ」
「來て何をするのです、あの人は面白いでせう」
「えゝ、お喋舌ばつかりして」と、眉を顰めて、さも不愉快さうだ。
「あれ程毒氣のない秘密のない男もない、だから皆んなに好かれるんです、加瀨なんかもあの人には何もかも打明けると見えて、僕のやうな永い間の友人が知らんことまで小山君は知つてゐます」
「ですけど小山さんにだつて、秘密はあるでせう、人間は誰れにだつて秘密はあるんですもの」と滅入つた聲だ。
[Pg 355]「さうですかねえ、しかし小山や加瀨の秘密といつて、高がきつと情婦を拵えとく位のことだらう」と冷かに笑つて、殊更に侮蔑するやうな目付でジツと相手を見た。それがお樂には身震ひする程の感じを與へたらしい。つツと立つて階下へ下りた。私は後を見送つて姿のいゝ女だと思つた。少くもお靜よりは生々してゐる。そして小山の云ふやうにこの女も加瀨を戀してゐると思ふと、何となく不愉快な變な感じがする。
暫らくして私も階下へ下りた。小山は緣側で肥つた女と竊かに何か語り合ひ、お樂は長火鉢の前で夕刊の新聞を讀みながら、橫目でその方を偸見してゐた。
「あれは誰れだ」と、歸り途に小山に聞くと、
「お樂の姊さ」と、簡單に答へて、何時ものお喋舌を續けない。
「お樂も妙な女だね、」
「あれも馬鹿に浮いてる時と、妙にひねくれる時とある」
[Pg 356]この日からお樂は私の頭に一つの蟠まりとなつて殘つた。懷かしくも床しくも思ふのではないが、只一二年前お靜に別れて以来私に例のない一種のインテレストを惹起したのだ。何故だらう、私はお樂と加瀨の戀に疑問を抱いてゐるので、その經過を見たいと思ふ好奇心から、知らず〴〵お樂が私の心を去らなくなつたのだらうと思つた。で、お樂ともつと打解けて話して、あの淺薄な加瀨がどんな風に女の心に映つてゐるか、眞相を捜つて見たいが、容易に懇意にはなれぬ。
この後暫らく私は土州橋を渡ることが繁くなつた。それにつれて財政の平調も破れた。
(八)
大久保は躑躅が咲いて人の出入が多くなつた。私の家へも來客が多い。私は財囊の缺乏を感じて、内職に原稿稼でもしようかと思つてゐたが、手近い所に捌け口がない。加瀨に賴むのは厭だ。駈廻つて面識の淺い人に嘆願するのも淺ましい氣がす[Pg 357]る。まだ二十七歲の若い身空で、仰ぎ見る幻影もなく、只刻々の肉慾を充たさんがために、僅かの金を求めてゐる自身が可笑しく感ぜられた。
或日加瀨と小山とが躑躅見の歸りに立寄つた。加瀨の唇は臙脂をさしたやうに赤い。白い細長い指に黃ろい指環を嵌めてゐる。
「此頃も徒士町へよく行くかね」と、私は加瀨を見ると直ぐに問うた。
「僕よりや小山君の方がよく行く」と、加瀨はニヤリ〳〵笑ふ。
「君もよく行くぢやないか、しかしね須崎君、君は徒士町であまり評判がよくないよ、何だか意地の惡さうな人だと云つてる、僕は頻りに辯護するんだけど」
「さうかねえ、困つたものだねえ」
「君はわざつと女を侮蔑するやうな態度を執るからさ、柔しくさへすれば女は喜んで來る、君は下らないと云ふだらうが、それで女を弄んでりや、面白いぢやないか」と加瀨は珍らしく氣焔を吐く。
[Pg 358]「君も小山君の口眞似をするやうになつたね、僕は君の戀は眞面目なんかと思つてたのに、ぢや浮氣なんだね」
「浮氣でもない、それが戀の本體さ。せつぱ詰つたやうな戀は駄目だからね、餘裕のある戀でなくちや僕等はいやだ。面白味は其處にある」
「君も進步したもんだね」と、私は加瀨がこの家に同居してゐた時分を追想した。今の彼れの目は、邪推か知らぬが私を憐れむやうに見える。
「何しろ加瀨君は金があるから敵はない。外の點では敢て一步も讓らんがね」と、小山は歎息した。
加瀨は勝利者の如く笑つて、「この人も今戀の苦しみをしてるんだよ」
私は重ねて聞かうともしなかつた。加瀨は拍子拔けがして、橫を向いて小山と小聲で話し出した。
「徒士町の姉の方は夜遊びをするさうだ、あの家の妻君が皮肉を云つてたが氣に掛[Pg 359]るよ、以前に隨分謂はくのあつた女らしいからね」
「早く結婚して了へばいゝぢやないか」
「所が甘くさういかんよ、いざとなると逃げてしまうし」
「妹とは違うね」
「妹だつて分るものか」
「ハツ〳〵、君は女を見る目がない、妹は純潔なものだ、役所の方でも評判がいゝし、あんなに怠けないで働いてるんだもの、育ちが卑しいのに似合はず、あれだけに仕上げたんだからね、」
「君は成功者だが」と、小山は溜息を吐いた。
「小山君の婦人學も理論のみだね」と、私が橫から冷かすと、小山は「さうでもないさ」と云つて、グツタリ首を垂れた。その樣子が可笑しくてならぬ。
しかし小山の沈んだ調子は間もなく消えて、賑やかな世間話となつた。
[Pg 360]彼等は一しきり騷いで、ランプをつける頃に歸つた。徒士町へ行かうと二人は約束して、私をも誘うたが、私はそれに應じなかつた。
夕餐を終ると戶外へ出た。無意味に散步して、散步しながら加瀨と小山とが徒士町の二階で戯れて現拔かしてゐる樣を思ひ浮べた。二人とも年中飽きもせずに遊んでゐる。加瀨の奴仕事も愉快だと云ふ。やがて雜誌の主任に昇進するさうだ。案山子にフロツクコートを着せたやうな男が通用する世の中だと思ふと可笑しいと、私は强いて嘲つて冷笑してやつた。
花は散つて靑葉が柔い風に戰いでゐる。軒ランプもない薄暗い私の家の前には、子供が大勢騷いでゐるのが聞える。
私は小徑を五六丁行戾りして、家の側まで來ると座敷の障子に燈火が映つてゐる。消して出た筈だが、誰れか客でも來たのかと、多少悅しかつた。
座敷へ上つて見ると、お靜が片隅に兩袖を搔合せて座つてゐる。矢張顏が靑く唇の[Pg 361]色も褪せてゐれど、この前ほど厭に感ぜられなかつた。
「又日本橋へ行つたと聞いてたが、まだ居るんだね」
「まだ身體がよくなりませんから、……どうせ駄目なのですから」と、聲も冴え冴えせず厭な音だ。
けれど私はあまり憎まれ口を利かなかつた。冷やかしもしなかつた。嘗て私を棄てゝ他所へ行つたこの女と火鉢を隔てゝ差向ひで、夜更ける迄も物語つた。下手な虛を云つてるなと折々心で嘲けりながら、女の苦勞話を聞いてやつた。
(九)
その翌日、朝早く出勤前に豐島からのハガキが着いた。「午後學校へ尋ねて行くから待てゐて吳れ」と鉛筆で書いてある。どうせ碌な用事でもあるまいと思つたが、別に歸宅を急ぎもせぬから、私は同僚が皆引擧げた後に居殘つて、この日の宿直の長沼と土臭い番茶を啜りながら話をしてゐた。長沼は私よりも七ツ八ツ年上で、子供[Pg 362]が二人もあるのに、月給は却て私よりも少く、生計には隨分苦勞してゐるのだが、人間が一風異つてゐて、敎場で鷄の泣く眞似をしたり、妙な身振をして生徒を喜ばせてゐる。同僚の中では一番私と話が合ふ方だ。
「今日も僕あさんざ失敗ましたよ、晚酌をやり過して下讀を懶けたもんだから、下らんことで間違ひを仕出かして、生徒の奴にうんと油を取られました。その上校長先生から手嚴しい忠吿を喰ひましてな、敎場で飄輕な眞似をしちやならん、敎場は神聖な所だから飽くまでも眞面目でなくちやならんと懇々と說諭されて、イヤハヤ面目もない次第ですよ、しかし飄輕だからまだ、私に脈があるんですが、これで御說諭通り辛蟲嚙つぶした間違をやつてた日にや、生徒の方で承知しません、校長先生も殘酷なことを申されるもんです、」と長沼は安値い刻煙草を吸ひながら眞面目で云ふ。
「けれど君は間違ひを氣に掛けるだけ眞面目なんです、それだけ正直なんだ、高が[Pg 363]丁年未滿の子供ぢやありませんか、口先きで甘く云ひまるめりやいゝんですよ」と、私が事もなげに云ふと、
「まあそんな者ですがね」と、長沼はヒツ〳〵と味のない笑ひ方をして、「私はどうも敎育だけは外の事とは違つてる、尊い者だと思うのでしてな、生徒の顏を見ると、忠實によく敎へてやりたい少しでも早く學業の進むやうに導いてやりたいと思うんですが、其處がそれ、私に學識が足らんもんですからな、どうも不行屆で汗顏の至りに堪へん譯です、と云つて辭職すれば外に糊口の道があるぢやなし」
「それだけ眞面目なら貴下は立派な敎師です、少し位誤謬を傳へようと、飄輕な眞似をしようと差支えないさ、僕なんか少年を愛する氣もないから、初めから敎授に身の入つたことはないのです」
「そりや君に子供がないからですよ、自分に子があつて見りや、他人の子も矢張可愛い、よく敎育してやりたくなりますよ、何も經驗だ、まあ子を持つて御覽なさい、[Pg 364]世の中ががらりと異つて來ますからね」
「子を持つと敎場で飄輕な眞似をして、生徒の御機嫌と執るやうになるんですね」と笑ふと、長沼も苦笑して、
「まあ、そんな者さねえ」と云つて、風呂敷の中から講談の「佐倉義民傳」を取出し、「今夜はこれをお伽ぎで宿直するのだ」と、机の上に廣げて小聲で讀み出した。言分が氣に入らぬのか、もう私を相手にしない。暫らくして豐島が下駄のまゝ敎員室へ入つて來た。私はほんの型式的に長沼を紹介した。豐島は「今日は馬鹿に蒸暑いぢやないか」と、袷の袖で額の汗を拭ふて目をパチクリさせ、それから一輪の花も一幅の繪もない薄汚い敎員室を見渡した。
「何か急用か」と、私の方から問ふた。この男何でもない事に、さも急用のあるらしく、惶だしさうに出たり入つたりする男だが、今日もその顏付が大事を扣へた人とも見えぬ。
[Pg 365]「僕は辭職した」と、豐島は大聲で簡短明瞭に云つた。
「さうか」と云つたきり、私は折返して理由を聞きもしなかつたが、長沼は片手で書物を壓へ、ヂロ〳〵豐島の顏を見て、聞耳立てた。
「俗な事を書かにや氣に入らんのだから、癪に觸つて、僕の方から出てしまつた。もう向うから賴んだつて、あんな仕事をやりやしない」と獨りで力んだ。
「それもいゝさ、君にはあんな俗務は不適當だからな、これから君の本音を出して活動するさ」
「むん、………それから君にお願ひだが、當分君の家に置いて吳れんか、迷惑だらうが」と少し言淀んだ。
「僕の家にか」と、私は躊躇したが、「ぢや來玉へ、今夜からでも」
「有難う、二三日内に荷物を持つて行く、そうすりや僕も安心して活動が出來る」と云つて、豐島は再び室内を見渡した。夕日はガラス窓を通して、埃の舞ふのが見[Pg 366]える。
長沼は自から立つて澁茶を吸んで、豐島の前に置いた。豐島は一息に呑み干して、
「此處も汚い學校だね、しかし君のやうな熱烈な人間を容れてるんだから、校長もえらい」
(十)
前夜私が物好きに柔しい素振を見せたので、お靜はもう以前の燒木杭が再び燃上つた氣になつて、せつせと近づいて來たが、私は最早腐つた菓實を嗅ぐやうで、思はず顏を背けたい程になる。そして「調べ物がある」とか、「金儲けをしてるんだから當分來て吳れるな、その代り一二年待つてりや、お前の好きなことをさしてやる」とか云つて、追退けるやうにした。間もなく豐島が、越して來てからは、お靜を遠けるに都合がよくなつた。
豐島は柳行李と机との總財產を持込んだ。何か著述をしてゐるようであるが、大抵[Pg 367]は外出して夕方に醉うて歸ることが多い。歸つての土產話には俗物と同情すべき人との消息を傳へる。彼れの世界はハツキリこの二種の人間に分類されてゐるので、かの長沼の如きは直ぐにその同情される人となつた。「君、あの男は保護してやり玉へ」と、度々心の底から私に賴むことがある。又彼れの崇拜者もあつて、折々訪ねて來て、夜更ける迄熱烈な議論が戰はされる。
「社會に反抗するのもいゝが、その前に生活の法ぐらゐ考へとかうぢやないか」と、私が注意すると、
「なあに僕あ一人身だ、生活なんか考へる必要はない、僕あ食へなけや放浪する、水ばかり呑んでゝも、爲すだけのことはして見せる」と取合はぬ。
「ぢや何時かの俗化主義はお止めだね」
「止めざるを得ないんだ、君もどうせ世に容れられんのだから、放浪生活をしろ、僕と一緖にやらう」
[Pg 368]「先づ君から經驗して見玉へ、面白けりや僕もやるよ」
そして彼れは繩暖簾をくゞつて、泥醉の後突如として汗臭い勞働者の腕を握り、その硬張つた手の掌に熱淚を濺ぎ、「僕は君の兄弟だ」と叫んで、周圍の客を驚かすこともあるが、彼自身は敢てその好きな放浪無宿の人ともならぬ。手に鶴嘴を持たうともせぬ。私の家によく寢て、よく飮みよく食つてゐる。
日が立つにつれて、收入の一定した私の財政は次第に窮境に陷る。豐島のためにも亂されたのだ。しかし彼れは私を信じ切つてゐる。私の迷惑などは微塵も念頭に置いてゐない。「困つたら二人で放浪するさ」と、放浪の夢を描いて見せるが、私にはそれが何の興味もない。彼れは放浪流離薄命の文字を見てすら胸を躍らすであらうが、私には艶も香ひもない空な文字たるに過ぎぬ。それで彼れが無職の徒や貧民と無理强いに交際を結び、彼等に解し難い氣燄を吐いて樂みとしてゐる間に、私は小山に會ひ、加瀨一輩の噂を聞いて、眠つた心を醒してゐた。
[Pg 369]
(十一)
豐島同居以來小山は前程繁々と訪ねて來ぬ。豐島を嫌つてか、戀事に忙しいためかであらう。私はこの人ばかりは會ひたくなるので、或日學校の歸りに立寄つたが、朝から歸らぬさうだ。
私は失望した。暫く上野の電車道に立つて、何處へ行かうかと考えた。そして目を尖らせて停留場に集まつてゐる數多の男女を見てゐたが、細長い顏丸い顏、皆夕日を浴びて、汗と埃に鈍染み、疲れた色をしてゐる。久しく雨を見ぬ空は冴えぬ色をして、その一方は黃ろく濁つてゐる。目の逹く限り生氣は見えぬ。若々しい色も香もない。
私は屈託した。
その揚句ふとお樂を訪ねる氣になり、徒士町へ足を向けた。お樂には小山のお供で二三度會つたきりで親しくないのみか、私はあの女に憚られてゐるのだ。しかしそ[Pg 370]の憚られてゐる所へ推かけて行くと云ふことが、私の倦んだ心を刺激して多少の活氣も湧いて來る。
威勢よく格子戶を開けて、宿の妻君に「小山さんは來てゐませんか」と聞くと、「今入らしつて直ぐお歸りになりました」といふ。
「ぢやお樂さんは」
「ゐらつしやいますよ」
私はそれ丈聞いて、無遠慮につか〳〵二階へ上つた。お樂は俯首になつて手紙を讀んでゐたが、慌てゝ居住ひを直して、私を見上げた。ニコリともせず澁々座蒲團を出した。
「小山君が來てるかと思つて」と、私は言譯をして、わざと柔しく馴々しい風をして、「どうです、僕の家へも遊びに來ませんか」
「はあ」と、女は手紙を卷いて封筒に入れた。小山の噂加瀨の話と、勉めて相手を[Pg 371]誘つても、向うから乗つて來ない。埃を吹寄せる風を厭うて障子を締切つてあれば、冬洋服着用の私には暑苦しくて窮屈だ。で、物好きにこんな所にゐるにも當らぬと思つたが、今日は不思議に腰が据つて動かない。
私は加瀨が結婚する前に、不意にこの女を奪つて、加瀨に鼻を空かせたら面白からうと思つた。小山やその叔母や從妹の前に並んで、加瀨の鈍い神經を驚かしてやりたい。私は嫉妬からかう思ふのではない。只私の目には今でもポンチ繪に見える加瀨に、自分自身をそのやうに感じさせて見たい。
そして女を口說くに何の苦心が入らう、失敗を耻づる私ではない。他人の後指を氣にする私ではない。かねて電車を飛下りる位の冒險さへすれば、是非を云はせず、女は我が者と信じてゐるのではないか、甞てお靜は手を握るだけで充分であつた。かう思つたが、思ふほど尙更口も手も活動しなかつた。
お樂は女學雜誌を讀み出した。讀むよりも屛風代りにして私の視線を避けるのかも[Pg 372]知れぬ。私は「何か面白いことが書いてありますか」と、雜誌を引たくるやうに取つて、飜して見た。表紙裏に「△△女史に呈す」と書いて、下に加瀨の雅號がある。お樂は恨めしい顏付をした。
「△△つて貴女ですか」と、私は冷かすやうに云つて、ジツとその文字を見詰めてゐたが、フイとお樂に目を移すと、お樂は目に淚を湛えてゐる。
「何か御用があつて被入つたんですか」と切口上で云ふ。
「えツ、別に用事もないんです」と、私は驚いて云つた。
「では何しに被入たのです」と、私の手から雜誌を奪返し、表紙を引裂き手に力を入れて丸めながら、「貴下だつて加瀨さんだつて、私を調戯いに被入しやるんだわ、」
「何故! そんな譯はないぢやありませんか、小山君は兎に角僕や加瀨にそんな惡意はないさ、殊に加瀨は貴女に敬意を表してるんですもの」
「加瀨さんとかゞ何うなすつたつて、私少とも係合ひはありませんわ」と、お樂は[Pg 373]淚を拭つて、「何が面白くつて、皆さんは五月蠅く私の家へ被入やるんでせう、私姉さんのやうに惡戯けたお相手は出來ませんから、私一人の時には、もう何方もお出で下さらぬやうにお願ひ申します」と、屹とした口調で云つた。
私も多少極りが惡くないでもなかつたが、それよりもこの女を不思議に感じて、尙座を立たうとはせぬ。
「そんなに我々を嫌はなくつてもいゝでせう、何か事情があるんですか」と、私は微笑しながら靜かに云つた。
お樂は暫らく默つてゐたが、先きのむごい言葉を氣の毒に感じたのか、急に柔しい聲音で、「此頃は身體の加減ですか、人樣と賑やかなお話しますのが、何だかつらいんですから、寧そ初めからお目にかゝらん方がいゝと思ひますわ」
「さうですか、東片町へもあまり行かんのですか」
「えゝ。ちつとも、何時か歌留多會があつて、貴下も被入つた時、參りましたきり、[Pg 374]あの後は一度も窺ひませんの、」
「だがあの連中はよく此家へ來るんでせう」
「はあ、………あの方逹は何故あんなお話ばかりなさるんでせう、雜誌にお書きになつてることゝは丸で違つてますのね」お樂は顏も心も落付いたやうだ。で、身體を品やかに曲げて、雜誌を默讀してゐたが、又起直つて雜誌を指先きでいぢくりながら、「貴下は學校の先生をして居らつしやるんですつてね」
「さうです、小さい私立學校の敎師だから、月給は安いし、加瀨のやうに贅澤は出來ません、これで十年近くも苦學して、こんな境遇ですからね………だが、貴女は何故二人つきりで部屋借りをして、役所通ひなんかしてるのです、尤も小山君からは貴女の事をよく聞いてるけれど」
「小山さんが何を云つたつて當てになるものですか、あんな淺薄な人」と卑下やうに云つて、「私どうかして一日も早く姉と別れて、一人で暮したいと思ひます、」
[Pg 375]「心細いことを云ひますね、何か考へがあるんですか」
「女でも學問しなくちやなりませんわね、私なんか小學校を卒業したばかりですから………」
「それで澤山さ、橫文字を習ふよりや三味線でも習つた方が女らしくていゝ」
「ですけど、私少い時から三味線なんか習つたのを後悔しますわ、何だか早く忘れてしまひたいやうな氣がしますのよ」と、邪氣ない風が見える。
そして私が學校の敎師であるためか、私に向つて女子の學問の方法西洋音樂硏究の順序を質問した。明治の女子の心掛け、新しい家庭の道德など、女學雜誌から得たと思はれる問題を提出して、漢語交りで私に解答を促した。こんな問題ならさぞ加瀨には興味があるであらうが、私の耳にはノンセンスだ、で、いゝ加減に返事をして、「休日に私の家へお出でなさい」と云つて、戶外へ出た。
家へ歸ると、豐島が垢染みた單衣を着て肱枕で寢ころんでゐたが、私を見ると、靑[Pg 376]い顏を持上げて、「今日はいやな天氣だから頭が重い」と、口をもが〳〵させた。
「酒を呑まんからだらう」
「うん、金がないから」
「意氣地がないね」
「少し持つてたのを、今乞食にやつちまつた、………今日又あの女が來たよ、靑い顏の女が、妙な奴だね、何をしに來るんだらう、君はどうして知つてるんだ」
「以前この隣に住んでたのだ、あれのお母に飯を炊いて貰つたこともある、何か云つてたか」
「いや、直ぐ歸つちやつたが、憐れつぽい女だね、僕は同情する」
この夜彼れは豪語も吐かず、古行李を開けて黴の生へた浴衣、袖の千切れた綿入、古雜誌古書物を引出して整理してゐた。私は散步がてらお靜の家の周圍を迂路ついて、家の者の目を忍んでお靜を引出した。鈍色の雲に星も隱れ、女の顏ははつきり[Pg 377]見えなかつたが、私は顏を見ようともせぬ、聲を聞きたくもない。そして晝に見たお樂の柔かい肌を黑闇の中に思ひ浮べながら、お靜の袖に觸れ、お靜の息に觸れてゐた。
その後も二三度お靜に會つた。會つた後は何時も不快な感に堪へぬので、豐島に向つて、「彼女が又來たら追拂つて吳れ、性質の惡い女だから」と賴んで置く。しかし豐島は「同情すべき女」と定めてしまつて、私の留守にも座敷へ通して睦じく話をするやうになつた。
(十二)
當てにもしないが、萬一お樂が私を尋ねて來るかも知れんと心待ちにすることもあつた。小山は十日も顏を見せぬ。
その中五月は暮れる。私は豐島同居が影響して、月末の拂ひに困つた。豐島は君と苦樂を共にすると云つて、汚れた衣服を賣飛ばしたが、それが幾何にならう。で、[Pg 378]寧そ有るに甲斐なき家を疊んで下宿をしようか、豐島を追出す口實にもなるし、それにお靜と手を切るに都合もよしと思ひ、そろ〳〵安下宿の捜索を初めた。或日も散步を兼ねて宿を捜すつもりで、電車に乗つたが、思ひがけなく向側に小山がゐて、突如に、「君大變な事が出來てね」と、目を据ゑ口を尖らせて云つた。
「そうか」と、私は何を仰山さうにと心では思つてゐた。
「徒士町の美人が二人ともゐなくなつたよ、あの家で聞いても何處にゐるか分らないんだ、それに役所へも行かんらしいよ、餘程變だよ」
「だが君に知らせんとは不思議だね、嫌はれたのか」
「何だかね、此頃聞いたのだが、姉の方は隨分曰はくのある奴で、色んな男に關係してたやうだがね」
「君もその一人ぢやないか」
「だつて僕あ少しも金を費はんからいゝさ」と、恍けた顏をする。
[Pg 379]「加瀨も失望してるだらう」と、私は加瀨の悄氣た樣子を想像して冷やかに笑つた。
「いや、あの男はそうでもない、あんな女は幾らもあらあと澄してゝ、此頃は頻りに品川の鳥屋へ通つてるよ」
と、云つて、大聲で笑つて電車を下りた。
私はお樂の行衞不明を愉快にも感じたが、又何處へ行つて何をしてゐるか知りたくも思つた。壓へがたき一種の好奇心に驅られて、わざ〴〵徒士町の舊宅を訪ねたが、妻君は猜疑の目で私を見て、「存じません」と卒氣ない返事をして、取つく島もない。その中私は僅かの家財を賣拂つて、こつそり市ケ谷の下宿屋へ移つた。豐島は別に不平も云はず空つぽの古行李と古机とを持つて出て行つた。豐島には離れ、止むを得ぬ些少の借金は片付き、お靜には住所も知らせねば、向うから訪ねることも途絕え、私は以前の如く靜かな日を送り、只小山とのみ往來して、加瀨の噂世の靑年の消息を語り合つては冷かしたり嘲つたりして喜んでゐた。箱崎町通ひも元の通り。
[Pg 380]平坦な日が暮れて平坦な夜が明ける。煙草を吸ひ湯を呑んで幾時間を過すことも多い。痴鈍な長沼の目にも私が不思議に見えたのか或日敎員室で、
「君は田舎に家があるんだから、敎師なんかしないで、田舎に歸つたらいゝぢやないか」と眞面目でいつた。
「僕は田舎を思ひ出してもぞつとする、これで東京に居ればこそ、誰れが死なうと病らはうと、犬や猫と同樣に見てゐられるんだが、田舎はそういかんからね」
語調が銳かつたのか、長沼は私を見上げて呆氣に取られてゐたが、
「僕等はまだ老人でもないが、生活が立ちや田舎へ引込んで氣樂に送りたいと思ふ、君逹が都會にゐたがるのは、まだ一家の苦勞を經驗せんからだ」
「十八番が始まつたね」
と、私は例の敎員を尻目にかけた。長沼は腕力も俸給も智識も私に及ばぬが、只年齡に於て一日の長があるので、どうかすると、「君は若いからねえ」とか「まだ經驗[Pg 381]が足らんから」とか云つて、僅かに哀れなる自己を主張してゐる。
私は或時長沼のために爭つた。校長が彼れを無能として排斥しかけたのを遮り、彼れの爲に拳を握り目を怒らせて辯護した。私の意見は用ひられて無事に收まつたが、返事次第で校長を毆打せんとまで息込んだのだ。長沼は私の俠骨を喜び、下宿へ來て淚ながらに感謝した。しかし私は深い同情から彼れを擁護したのではなくて、只氣まぐれに過ぎぬのであつた。退屈さましの戯れに過ぎぬのであつた。
(十三)
或日小山はようやく「お樂の住所が分つた」と、さも傲り顏に私に吿げた。
「何處にゐる」
「芝四國町二十三番地、捜すのに困つたよ、學校へ行つてたそうだがね、今はそれどころぢやない。大變困つてる、何でも姉が惡い男に引かゝつたので、妹の貯金まで絞り取られたらしいよ、それで姉は妹に離れて何處かへ行つて、お樂一人泣きの[Pg 382]淚で暮らしてらあ、いゝ氣味さ、僕等を欺しやがつた天罰だ」
「加瀨が保護して吳れるだらう」
「なあに、加瀨はもう結婚の準備に忙しいから、お樂のことは忘れてる」
「さうか、相手は誰れだ」
「お楠、僕の從姉だ」
「ぢや加瀨と君とは親類になるんだね」と、私はお楠のブク〳〵肥つた身體とおチヨボ口を思ひ浮べながら、
「加瀨も方々嗅いで步いたが、つまりは手近い所で間に合すんだね、」
「叔母は不賛成だつたが、まあ輕便でいゝさ」
と、小山は利害相關せずと云つた風だ。
その夜私は久振りで加瀨に手紙を送つた。
「もう結婚するさうだね、お目出度、御披露の節に僕も招いて吳れ玉へ、吉例に謠[Pg 383]曲くらゐ謠はうよ、兎に角君は羨ましい、徴兵檢査が濟むと、苦情も云はずに結婚する、やがて子が生まれるだらう、やがて君の顏に皺が出來るだらう、」
加瀨からの返書は略一尋もあつた。謹んだ手跡で、さも考へたらしい文句に滿ちてゐた。その中に
「結婚以前には、若い女の眼は悉く僕に對して媚を呈してゐるやうに思はれたが、女房が定つてからは、全然態度が一變したやうに感ぜられる。瞳の底の方で冷かに笑ひながら、お前さんはもう駄目ですよ」と云つてゐる。何におれが女房を貰つたかどうだか、見ず知らずの世間の女に解る譯がない、氣の所爲だと安心して見るが、矢張り『駄目だ〳〵、白羽の矢は東片町の屋根の上』と云つてゐて相手にしない」と云ふ文句があつて、終りに「君よ、戀すべし、結婚すべからず」と、世路に老いた人の云ひさうな文句を添えてゐる。
私は却て彼れに飜弄されたやうに感じてヂレた。彼れは何時までも太平である。道[Pg 384]樂に仕事をして道樂に世を逹觀したやうな皮肉を云つて、そして道樂に戀をし結婚もしてゐる。
で、この時彼れを冷笑する勇氣もなかつた。そしてこの一夜二三年來の反抗心の消えて、何となく人懷かしくなつた。
今朝からの梅雨が夕立模樣になつて、向ひの屋根には水煙を立て、激しい音で降濺いでゐるのに恐れず、宿を飛出した。小山の氣樂な話を聞きたいのでもなく、お靜の靑い顏を見たいのでもなく、只一圖に豐島に會ひたくなつた。彼れの濡んだ目を見たい、彼れの情熱の言葉を聞きたい。
正宗 定價六拾錢 |
著 紅塵(三版) |
白鳥 郵稅八錢 |
明治四十一年十月十八日印刷 何處へ奧付 |
明治四十一年十月廿五日發行 定價八拾五錢 |
著作者 正宗白鳥 |
東京市麹町區飯田町六丁目廿四番地 |
不 許 發行者 西本波太 |
東京市小石川區久堅町百〇八番地 |
複 製 印刷者 山田英二 |
東京市小石川區久堅町百〇八番地 |
印刷所 博文館印刷所 |
―――――――――――――――――― |
東京市麹町區飯田町六丁目二十四 |
發行所 易 風 社 |
振替口座一二〇三四番 |
Transcriber's Notes(Page numbers are those of the original text)
原文 珈珈店(p. 3)
訂正 珈琲店
原文 良體(p. 4)
訂正 身體
原文 「如何にして(p. 5)
訂正 如何にして
原文 あらあね」、(p. 13)
訂正 あらあね」
原文 微錄(p. 17)
訂正 微祿
原文 武具(p. 18)
訂正 武具
原文 始んど(p. 23)
訂正 殆んど
原文 言葉た(p. 25)
訂正 言葉を
原文 被入やる(p. 29)
訂正 被入やる
原文 私(p. 30)
訂正 私
原文 壁はは(p. 31)
訂正 壁には
原文 暫らく(p. 34)
訂正 暫らく
原文 外戶(p. 38)
訂正 戶外
原文 初めて間(p. 39)
訂正 初めの間
原文 堪へ(p. 40)
訂正 湛へ
原文 强いて(p. 44)
訂正 强いて
原文 程でもないだけど(p. 45)
訂正 程でもないんだけど
原文 頂けんのです(p. 45)
訂正 頂けんのです
原文 面白い(p. 45)
訂正 面白い
原文 聞てゝても(p. 48)
訂正 聞てゝも
原文 見たくなつたの」。(p. 49)
訂正 見たくなつたの」
原文 お成りなさいな」。(p. 49)
訂正 お成りなさいな」
原文 云ふですか(p. 51)
訂正 云ふのですか
原文 出入(p. 52)
訂正 出入
原文 健次などか(p. 52)
訂正 健次などが
原文 招かれる(p. 53)
訂正 招かれる
原文 一寸(p. 53)
訂正 一寸
原文 定る(p. 64)
訂正 定まる
原文 聲をかける、(p. 65)
訂正 聲をかける。
原文 月初で(p. 67)
訂正 月初めで
原文 並べるか(p. 67)
訂正 並べるが
原文 記行(p. 68)
訂正 紀行
原文 洩らした(p. 70)
訂正 洩らした
原文 酷いは(p. 74)
訂正 酷いわ
原文 如何にして(p. 74)
訂正 如何にして
原文 持つてゝ(p. 81)
訂正 持つてつて
原文 その宅を出て(p. 83)
訂正 その宅を出て
原文 上かるか(p. 84)
訂正 上がるか
原文 何だか(p. 86)
訂正 何だか
原文 兄さん(p. 86)
訂正 兄さん
原文 主婦(p. 89)
訂正 主婦
原文 御馳走なんか(p. 89)
訂正 御馳走なんか
原文 叙情的(p. 90)
訂正 叙情的
原文 氣心(p. 91)
訂正 氣心
原文 やがで(p. 94)
訂正 やがて
原文 それには(p. 95)
訂正 それにね
原文 續けてやつけば(p. 96)
訂正 續けてやつてけば
原文 訴へる(p. 96)
訂正 訴へる
原文 起上つた(p. 99)
訂正 起上つた
原文 咳いた(p. 101)
訂正 呟いた
原文 滅入つた(p. 101)
訂正 滅入つた
原文 話を(p. 103)
訂正 話を
原文 躊躇(p. 106)
訂正 躊躇
原文 以前(p. 107)
訂正 以前
原文 移つてる(p. 108)
訂正 移つてる
原文 焦慮で(p. 108)
訂正 焦慮て
原文 終始(p. 111)
訂正 終始
原文 欺いて(p. 111)
訂正 欺いて
原文 働く(p. 112)
訂正 働く
原文 女供(p. 115)
訂正 女共
原文 土古耳(p. 117)
訂正 土耳古
原文 何んだつて(p. 117)
訂正 何んだつて
原文 「目を細く(p. 119)
訂正 目を細く
原文 駄目だ」。(p. 120)
訂正 駄目だ」
原文 考へて(p. 123)
訂正 考へて
原文 兄さん(p. 125)
訂正 兄さん
原文 身分(p. 129)
訂正 自分
原文 麥酒て《びーる》(p. 132)
訂正 麥酒で《びーる》
原文 閾(p. 133)
訂正 閾
原文 靑くて(p. 135)
訂正 靑くて
原文 縦橫無盡(p. 135)
訂正 縦橫無盡
原文 癩(p. 139)
訂正 癪
原文 兩手(p. 140)
訂正 兩手
原文 詮方(p. 141)
訂正 詮方
原文 打たれる(p. 143)
訂正 打たれる
原文 入被やい(p. 146)
訂正 被入やい
原文 甲裴(p. 150)
訂正 甲斐
原文 恐うであしてね(p. 155)
訂正 恐うごあしてね
原文 忰(p. 155)
訂正 忰
原文 ずり込んて(p. 159)
訂正 ずり込んで
原文 出で(p. 162)
訂正 出て
原文 異つたものんだね(p. 164)
訂正 異つたものだね
原文 言葉少ない(p. 168)
訂正 言葉少なに
原文 突込み。(p. 168)
訂正 突込み、
原文 堆積(p. 171)
訂正 堆積
原文 二十歲(p. 178)
訂正 二十歲
原文 賑やがた(p. 181)
訂正 賑やかだ
原文 切られるぞ」。(p. 187)
訂正 切られるぞ。」
原文 隱くし(p. 187)
訂正 隱し
原文 見廻ず(p. 189)
訂正 見廻す
原文 怠くて(p. 190)
訂正 怠くて
原文 止んだか(p. 193)
訂正 止んだが
原文 明るく(p. 193)
訂正 明るく
原文 大床胡(p. 201)
訂正 大胡床
原文 眺めめて(p. 202)
訂正 眺めて
原文 捨つた(p. 203)
訂正 拾つた
原文 吉公(p. 204)
訂正 吉松
原文 口眞似(p. 209)
訂正 口眞似
原文 先き(p. 209)
訂正 先
原文 逹公な(p. 210)
訂正 逹公は
原文 顏か(p. 211)
訂正 顏が
原文 暇があれが(p. 211)
訂正 暇があれば
原文 聞かせます(p. 216)
訂正 聞かせます。
原文 娘さんか(p. 224)
訂正 娘さんが
原文 どうでず(p. 227)
訂正 どうです
原文 缺げた(p. 230)
訂正 缺けた
原文 貴下方も(p. 231)
訂正 「貴下方も
原文 世態話(p. 235)
訂正 世態話
原文 因つて(p. 235)
訂正 困つて
原文 立つだけても(p. 240)
訂正 立つだけでも
原文 勤めた(p. 243)
訂正 勸めた
原文 仰せつかたつて(p. 246)
訂正 仰せつかつて
原文 尊敬してるんでず(p. 247)
訂正 尊敬してるんです
原文 僕も(p. 255)
訂正 「僕も
原文 書きかけゐる(p. 256)
訂正 書きかけてゐる
原文 後園(p. 256)
訂正 公園
原文 それ白面もからう(p. 259)
訂正 それも面白からう
原文 渦中(p. 259)
訂正 渦中
原文 經える(p. 264)
訂正 絕える
原文 て、自分は(p. 264)
訂正 で、自分は
原文 山吹町《やまぶしちやう》(p. 266)
訂正 山吹町《やまぶきちやう》
原文 始ある(p. 274)
訂正 始める
原文 取立て(p. 279)
訂正 取立て
原文 自身には(p. 279)
訂正 自身も
原文 のこ男(p. 281)
訂正 この男
原文 育て上けて(p. 281)
訂正 育て上げて
原文 險幕(p. 282)
訂正 劍幕
原文 籠つてるのでもないか、(p. 282)
訂正 籠つてるのでもないが
原文 睨みつけてゐたか(p. 284)
訂正 睨みつけてゐたが
原文 散步して入しつたんですが(p. 284)
訂正 散步して入しつたんですか
原文 嘲げつてる(p. 286)
訂正 嘲けつてる
原文 梅雨て(p. 291)
訂正 梅雨で
原文 脫いて(p. 297)
訂正 脫いで
原文 持上けて(p. 300)
訂正 持上げて
原文 金たか(p. 302)
訂正 金だが
原文 襲ばれて(p. 302)
訂正 襲はれて
原文 門札か(p. 312)
訂正 門札が
原文 加瀨(p. 314)
訂正 加瀨
原文 さんだ(p. 315)
訂正 さんざ
原文 御存知じなんですね(p. 319)
訂正 御存知なんですね
原文 「新奇だといふ」(p. 336)
訂正 「新奇だ」といふ。
原文 汗ばんた(p. 338)
訂正 汗ばんだ
原文 死際まて(p. 339)
訂正 死際まで
原文 來たのぢないか(p. 340)
訂正 來たのぢやないか
原文 濃い(p. 324)
訂正 濃い
原文 誰か(p. 354)
訂正 誰か
原文 衣食の慾と少く(p. 348)
訂正 衣食の慾は少く
原文 ですけと(p. 354)
訂正 ですけど
原文 フロツツコート(p. 360)
訂正 フロツクコート
原文 飄輕な眞似(p. 362)
訂正 飄輕な眞似
原文 子供ぢまありませんか(p. 363)
訂正 子供ぢやありませんか
原文 嗅く(p. 366)
訂正 嗅ぐ
原文 朝かぬ(p. 369)
訂正 朝から
原文 居らつしやるんてすつてね(p. 374)
訂正 居らつしやるんですつてね
原文 なるものてすか(p. 374)
訂正 なるものですか
原文 尋ぬて(p. 377)
訂正 尋ねて
●文字・フォーマットに関する補足
句読点は原則として原著のそれを維持したが、カギ括弧を閉じた後に読点「、」が振られている場合は、誤植とみなして読点を省いた。
「空想家」では「山吹町」と「山伏町」が混在しているが、そのままにした。
原文で印刷の不明瞭な部分、誤植と思われる部分は一九八三年刊行正宗白鳥全集第一巻(福武書店)を参照し確認したうえで訂正した。
片仮名の「ネ」をあらわす漢字の「子」に似た字は「ネ」の字で代用した。
End of the Project Gutenberg EBook of Doko e, by Hakucho Masamune
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To learn more about the Project Gutenberg Literary Archive Foundation
and how your efforts and donations can help, see Sections 3 and 4
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Section 3. Information about the Project Gutenberg Literary Archive
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number is 64-6221541. Its 501(c)(3) letter is posted at
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Section 4. Information about Donations to the Project Gutenberg
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